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晴れな人生、生き方!
それでいて、夢がちりばめられていて、ところどころで出会えるといい。
自己満足だとも思いながら、夢の一つである国際協力に踏み出す。

*用語説明*
ANM・・Auxiliary Nurse Midwife(准看護助産師) 農村部で15・6の村を対象にドクターなしで診療所を運営する。分娩から成人・子どものケアまで。

ナース・・・日本のように看護師と助産師の資格が分かれておらず、それ以上のことも行う。例)会陰切開や、縫合など

2009-12-31

平日ですけど、なにか?

去年は、「入り」っていう勤務をやりました。

大みそかの朝から夕方まで働いたあと、一度仮眠をし、23時頃に再び病棟へ行き、交代の助産師達と一緒にテレビで年を越した後、元旦の朝9時まで働きました。

ラウンド(病室見回り)に行って帰ってこない同僚の、どん〇えのソバが伸びたり、2009年まであと数分!ってところで、空気の読めない当直師長さんが病棟に来たり、「おめでとう」の数分後にはナースコールがなり、患者さんの排泄処理をしないといけなかったり。

いつも通りのそんな年越しでした。


その前の年は脅威のインフルエンザにかかり、誰も交代してもらえない元旦は薬漬けで働き、そのあとは一気にダウンして、自分の病院の救急外来に這っていき、当直の研修医にブツブツ言われ、頭にきたが熱が40度で言い返せなかった。

そんな年越しでした。



さて、インドではどんな年越しを迎えるのかな、と思っていましたが。


「ありませんでした」

「・・・」

「年越しが、ありませんでした。」

予想外です。うろたえます。
どんな年越しでもまあ慣れっこだったのですが、「ない」となると、もうお手上げです。

ヒンドゥー教の新年は10月に切り替わってしまいましたし、イスラム教もキリスト教も大イベントは終わってしまいました。
1月1日はどうするの?って近くのインド人に聞いてみましたが(ちなみにヒンドゥー)、

「んー。平日だね」って。
答えになってないんですけど・・・

「だって、あれって西欧のものでしょ?」って。
日本はもはや西欧化しすぎちゃってたんですね。

デリーとか、ムンバイとか、大都市は「やっほー!」だの「Happy NewYear」だのパーティーとか打ち上げ花火とかあるんでしょうが、田舎はひっそりしています。
女が夜に出歩くなんてめっそうもございません上に、おとといからの耳鼻の調子が悪化しまくりなので、私も平日をエンジョイしております。

いつも通り、八百屋も、牛乳売りも、隣の改装工事も、なにもかも動いてます。

「え、明日から2010年なの? あっそ。」
みたいなインド。
だいたい行く先々や場所によって、時計の時間が全部バラバラ。
いったい何時なのかわからない毎日が、来年になってようがたいしたことではないですよね、インドさん。

でも憎めない。
だからこんな、どことも似ても似つかない国になったんでしょうね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
インド以外の国のみなさん、今年もお世話になりました。
よいお年をお迎えください。

2009-12-29

アターイース

朝からのどが痛く、ガラガラ。
今日、休みだっけ?と頭はボーっとする。
もう一度寝た。
また、デリー熱みたいなあんな事態になっては、私の病院で治療されてしまう!
そんなの死んだも同然!自力で治してやる!と思って、もう一度寝た。
そしたらムンバイに行っている、何度か紹介した女医さん家族から電話。

「Happy Birthday,Kana!!!」

そうでした。誕生日でした。
昨日まではもちろん覚えていたのですが、朝起きてすっかり忘れていました。
みなさん年末であちらこちらへ出かけており、おまけに休日(実は勝手に休日と思いこんでいました)のため、ゆったり大家の母と屋上で過ごした。
しかし、キツすぎる日光と体調不良の頭痛にたえきれず、結局また寝た。

気付いたら、大変なまでのメールを家族・友人よりいただいており、こちらのお友達もスタッフもみなさんお電話してくれた。

幸せです。
祝ってもらえるって、何よりも幸せです。

「この子は大事なときに熱を出す」
と、私の母はよく言っていましたが、今日も体調を崩した娘でした。
日本の素晴らしい薬と、素晴らしい看護師(私)により、夜には回復できたのでした。

初めての、半袖の誕生日。
28歳になりました。
アターイースといいます。
28年間、何不自由なく生きてこられて本当に嬉しい限りです。
ここインドに来て、それがどれほどのありがたさかまた分かったような気がします。

みなさん、いつも温かい言葉ありがとうございます。
来年の誕生日もインドのようです。

2009-12-26

接待オペ

私が一番仲良くしていただいている女医さんは、暇があると私をオペへ誘う。
日本に居た時は、帝王切開の時ぐらいしかオペ室に用はなかったので、他のオペなんて学生の時一回みたぐらいだった。
特に嫌いなわけでもないが、特にめちゃめちゃ興味があるわけでもない・・・

しかし、「今からオペよ。見においで!」とか
「○○先生(お偉いさん)がオペするわよ、興味あるでしょ?」とか言われると、
別に取り立てて急ぎの用でもない限り、NOと言えないのが日本人。
「はい、みにいきます」と言って、結局1・2時間のオペに入ることになる。

「いいえ、興味ありませんから」
「それって私の活動に関係ないんじゃ・・・」
とか、言ってしまっても何も起こらないのかもしれないが、縦社会で人間関係を重んじるインド。
私の活動も信頼関係あってこそ始まると信じているため、彼女を始めとする医師達とも顔も心もある程度ツーツーにする必要があると思っている。
なので、(確かに見ていて飽きはこないが)特に今の活動と関係のないオペも見させていただいている限り。


おかげさまで、今まで無知だった婦人科のオペ進行を知ることができ、
とっつきにくかった麻酔科医に名前を覚えていただき、笑顔をいただいた。


接待も、仕事のうち。
「先生!ナイスカッティング!ナイススティッチング!」
「いやいや、たいした縫合じゃなくってよ」
といった会話が、いつか何かの役に立ちますように。


「先生、休日はぜひ!」といって朝早くゴルフにでかけるサラリーマンのように、
「今日も先生のオペ、みさせていただきたいです!」オーラが出ているのかもしれない。

2009-12-24

イブの朝に

出勤して、分娩室を覘いて5分後、その子は生まれてきた。
全身を真っ青にして。
急がないスタッフ。
どうせできることがないのが理由だろうか。
到底見ているだけにはいかず、手袋だけはめ、置かれたその子を自分が引き受けた。


十分わかっていた。
この状態で、ここでできることは何もない。
助からないのだ。
胎便をお腹の中でたくさん飲んでしまったその子は、すでに窒息状態だった。
電気がない、空気を送るアンビューバックはどっかにいった、寒々と風が通る。
注射器の先にカテーテル(ビニールの管)をつけ、即席で吸引器をつくる。
家族をあおり、布を持ってこさせる。
一生懸命体をふき、注射器で気管にたまった粘液をひく。
5分経過。
10分経過。
「どうしたい?」とその子に問いかけてみるが、
信じられないぐらいの頻脈だけが残されただけだった。


「よく起こることなの。しかたないの。泣かないの。」
呆然とナースステーションに戻った私に、スタッフのみんなは言った。
「ここには電気がないの。吸引したくったって、できないの。そういう場所で働いてるのよ、私たち。ね。」
と、優しい口調だが淡々と言った。

その通りなんだろう。
しかし、今回の事例に限ってはそういうことではないのだ。

分娩経過をよく観察していれば、
分娩経過をよく観察することが、大切なことだと知っていれば、
電気や機械がない状態で、蘇生をしなければならないような事態は起こらなかった。
目の前で逝ってしまうことが悲しいという単純な思いではなかった。
ずっと遠くの未来まで続くはずだったこの子の命を、その人生を体験させてあげられなかった。
私のせいではないこともわかっている。
気付くことができなかったスタッフは、気付けなかったことには気づいていない。
それも彼女のせいではない。
教育や、文化や、環境のせいだ。
でも、自分が変われば変わるということに気付くことはできるはず。
どうやらそれが私の活動目的のようだ。

今でも、あたり前に人が産まれ人が亡くなるこの場所では、
それがその子の人生だそうだ。
私がやってくるその前も、今も、そうやってやってきたのだから、今日私が悔やんでも仕方のないことなんだろう。

でも、もうすでに眠ってしまったその子をそっと渡したとき、
その子のおばあちゃんは悲しそうな目で、私に訴えた。
「サンソ・・・?とか、あげられないんでしょうか?息するかもしれない」

15分以上経過していた。
何も言えない私は、首を振るしかできなかった。

納得したり、神のお示しだと思ったり、こらえたりしているだけで、
悲しみは、悲しみだと思います。

2009-12-22

出会い

村から、ランダムに選ばれたANM。
21日間寝泊まり研修を受けに、県病院にやってくる。
村から出会いを運んできてくれる彼女たち。


まるで、恋人をうっとりみるようなしぐさで。
それは別に私が美しいとかそういうことでは全くない。
彼女にとって初めての日本人。
英語は全く通じない。
言葉もできない、何もできない、それでもそんな私を嘘のない全身のハグで迎え入れてくれる。
初めての外国人にも、キラキラした目と心で迎え入れてくれる彼女達の懐の深さに
言葉ではいいつくせない感動が湧きあがる。


出会いにも、友情にも、国境なし。
母なる大地の母なる人々 。

初めて会ったとき彼女は私にこう聞いた。

「日本からはヘリコプターで来たの?」

きっと、ヘリコプターなんて見たことがない彼女は21日目の別れの日、やっぱりキラキラした目で、ゆっくりと、拙い英語でこういった。

「アイ・ウィル・ミス・ユー」


同い年のラシュミー











今度は私が会いに行きます。

2009-12-18

はじめてのおつかい

所属するプロジェクトより、お手伝い願いたいとの出張命令あり、突然隣のパンナ県へ行ってきた。
2泊3日の初バス一人旅。
パンナへは、ボパール(州都)よりプロジェクトのインド人スタッフが直接やってきている予定。
私は一人、長距離バス(路線バス扱い)にてパンナへ行かなければならなくなった。

総勢15名ほど。
私が行って帰ってくるまで、それをフォローしてくれたインドの人の数。
「Pannaまで行くんだけど」というと、事前に一緒にバススタンドまでついてきて、バスの時間を確認してくれたANMの4人。
無理やり私が連れていかれたみたいに、積極的に助けてくれた。
当日、確実にバスに乗せてくれ、「あんた男なんだから、後ろいって。ねえ、車掌さん、この子の横には女の人座らせてよ!」と無理やり席確保。
バスワーラー(バスの運転手)と、車掌は、
「おうよおうよ!乗れ乗れ。任せろ」と、ドンと構えて受け入れてくれた。

ハッタというところ経由で行くそのバスは、バスの車掌が開きっぱなしのドアに立って、町中を「ハッタ、パンナ、ハッタ、パンナ、ハッタ、パンナ・・・・・」と、相撲のノコッタぐらいの速さで叫びながら行き先を告げる。
相撲のノコッタがノコッタに聞こえないのと一緒で、行き先を聞きとれないので初心者はバスに乗れない。
インド人はそれを聞きとって、動いているバスに次々と車掌の立っているドアから飛び乗ってくる。
じいちゃんも、軽やかに飛び乗る。
バススタンド以外からも、乗れる。
バススタンド以外からも、止まれと叫べば降りれる。
自由。
大草原を突っ走る。
牛の大群にしばし停滞。

途中で止まると一斉にチャイを飲みにいったり、バス再出発し始めてんのに、それからお菓子買いに行ってまた飛び乗ってきたりする。
自由。
いきなり、前からコンペイトウみたいなのが回ってきたり、隣の人がグァバをくれたり。
修学旅行か?
知らない人に、食べ物もらってはいけませんって教わったけど、どうみてもみんな食べてるから私も食べた。
味のあるヒンディー語の音楽がガンガン、車体は荒れた道をバウンドしまくり。
この自由さが、ものすごく気持ちいい。
インドに来て、人間らしく自由なところを見るたび、本当に気持ちいい。

15分ストップぐらいのところに止まると、バスワーラーと車掌が、「お腹すいてないか?ご飯くえ!あっちで食べるぞ、来い!」と言ってきたが、初めてで信用できなかった私は、
「すみません。お腹すいてませんので・・・」と言って切り抜けた。
降りたら現地のスタッフがお出迎え。
「ごはん食えって言ったけどさー、食べなかったぞ。」とスタッフへご親切に告げるバスワーラー。
さみしそうな顔してたので、警戒した自分、やや申し訳なくなる。

帰りのバス。
逆方向からやってきたバスも同時刻にバススタンドへ入ってくる。
つまり、行きのバスワーラー達。
帰り方向のバスワーラーに、「おい!この子ダモーまで行くからな、ちゃんと届けろ!」と。
優しいです。

3時間半乗って、60ルピー(120円)
往復120ルピー。
安いアトラクションでした。
楽しかった。

まるで子どもの一人旅。
はじめてのおつかい状態。
みんなに助けられて、無事帰宅。

出張内容は次回。

2009-12-13

我が子への思い

「昨日の夜、帝王切開みたの。見てみて、写真撮ったから」
朝、いつも通りANM(Auxillary Nurse Midwife)が研修のため寝泊まりしている部屋へ顔を出すと、そのうちの一人の女の子がこう言ってきた。
どうやら携帯の写真で撮ったらしい。
そこに写った小さな赤ちゃんは、静かに寝むっていた。
そして、全身が腫れあがっていた。
「お腹の中で亡くなっちゃったのはいつ?」と聞くと、
「誰も知らないの。40週(予定日)で、横位(赤ちゃんがお腹で横に寝ていて要するに下から産めない)だったから、帝王切開にしただけ。出てきたら、こうだった」と。
日本ではありえないが、ここでは機械や技術や環境の違いで、発見できないことはおおいにある。


インドには大昔から、ダウリーという習慣がある。
女の子は、結婚するときに大金を夫側の家へ払わなければならない。
貧しい人は、そのために全財産をはたかなければならないこともある。
女3姉妹とかになると、どういうことになるか想像がつく。
若ければ若いほど、ダウリーの金額は安くつき、相手側の位と自分側の位の微妙な差によっても変わってくるらしい。
貧困層が若年結婚なのはそれも関係しているとのこと。

デリーで知り合った大学生に、以前ダウリーの話をしたとき、
「そーんなの、大昔の話だよ!」と笑っていたが、
今日会ったすべての人に聞いてみたところ、今でももちろん行っているとこのことだった。
だいたい日本円にして20万~100万ぐらいの幅がある様子。
わたしの一日を書いたときに、日常の物価を少し紹介したが、それと比べてここではどれほど大きな金額かがわかっていただけると思う。


世界中で超音波が発達してきた今日この頃、妊娠中の異常の早期発見や成長度合をみるのに役立っている。
インドの田舎にも超音波は入ってきている。
日本では、産後の洋服の色が何色かまで決まってしまう。
生まれてくる子は本当に幸せだ。


その赤ちゃんは、女の子だった。


そのお母さんにはその子の上にもう一人子どもがいるが、そちらも女の子だ。
お母さんはこの結果を自ら望み、実は結構前から、何かの薬を飲み続けていたらしい。
超音波普及の副産物がここにある。

彼女の深層心理はわからない。
ただ、もうどうしようもないことが日常に存在するということだ。
何不自由なく育った私たちの価値観では推し量りきれないことが。

彼女はどんな思いで我が子を思っていたのだろうか・・・

静かに眠る赤ちゃんは、おそらくお母さんのとったその行動によるものだとのことだった。

2009-12-10

七不思議

宗教とか、神様とか、そういうのならまだ説明がつくことが、
全然関係ないのにみんなして一致していることがいくつかある。
そういうのを ’習慣’って呼ぶのかな・・・?


①チャイへのこだわり
この季節は特に、何かというとチャイを飲む。
外来中も、昼食後も誰かが知らぬ間にチャイ屋に注文済み。
人の家や仕事場に行けば必ず必ずチャイが出る。
しかし、そのチャイの前に必ず水が出る。
とりあえずこれを飲んで、チャイを待っててくださいね、という意味でもなさそう。
というのもチャイがそこに出来てるのに、まず水を出してくる。
そして、そのチャイが数分でも飲まずにおいてあったなら、必ずその中の一人がこういう。
「○○さん、チャイが冷めますよ!」
たとえ、どんな真剣な会議中でも、誰かが必ず指摘する。
ご親切に・・・ありがとう。


②西暦の謎
だいたい、日本なら
「いつ大学卒業した?」とか
「いつその病気になったの?」とか
「いつその本読んだの?」とかそういう ”いつ” 質問をすると、
たいていの人は ”○○歳のとき” とか、”○○年前” とか答えているような気がする。
でもなぜかインド人は、
”○○○○年です” とか、ひどいと ”○○○○年の○月○日です” とか答える。
別にいいんだけど、なぜか私にもそれを求められるので、
そのたびにしばし相手を待たせることになる。
さすが、ゼロを発見した国インド。
なのかどうかわからないが、やはり数字に強いらしい。
みんな、履歴書すぐ書けます。

③ゲップの地位
日本では、オ○ラもゲ○プもタブーです。
それが許せるかどうかが話題になるぐらいだから。
なぜか、ゲップが公認されているインド。
とってもとっても綺麗な人も、とってもとっても品があってパーフェクトな人も、
いきなりゲップをしたりする。
「ええええ、あらそうなの?まあ素晴らしいわね、ゲェーーーップ。それで?」
みたいなタイミングで。
それも、ケプッくらいじゃない、おじさまレベルのものを。
そのたびに、私の心がいつも萎える。
ああ、こんなに美人なのに。。。
食事中はさすがに止めていただきたい。
まだ慣れないインド事情。

④トランシーバー
携帯電話が普及済みのインド。
普通の階級以上の人はみなさん持っている。
パカパカもストレートもカメラ付きもなんでもあり
アンテナなんて内蔵済み。
そんな申し分ない携帯電話。
だからサイズも手のひらサイズ。
しかし、どうやらそれを信用してないのかなんなのか知らないが、
相手が話している時は耳につけて、
自分が話す時は口まで持ってくる。
トランシーバー状態。
「~~です。どうぞ!」みたいな。
あんなにおしゃべりなインド人。
その時間ロスで、やはり大事な会話を聞き逃してるんじゃないの?

以上、まずは七不思議 その1。

2009-12-09

数値と現実

いつも午前中は外来か分娩室に、午後はここ県病院に研修にきているANMの授業にでる。
ANMとは準看護助産師という名で、村で1人ないしは2人で村人すべての健康から分娩まで取り扱う人達。
あらゆる村から4人ずつ選ばれ、21日間サイクルで寝泊まりしここで研修する。
そんな日々の仕事の話は、これまた後日。

そんな毎日なのだけど、今日は初めて外に出た。
いつも通り外来に座っていると、私の相方(と言ってもポストは結構上のお方)ジャスミンさんに呼ばれる。
とりあえず車に乗れというので、乗った。
丘から広がる荒野を見下ろし、果てしなく広がる地平線をみる。
荒れた幹線道路を牛を避けつつ走ること30分。
アウトリーチ活動だった。
つまり、医療が届かない村へ出かけて、定期的に診療を提供しにいく活動。
到着した村の学校の1室に、2つほど机が置かれており、その部屋の前には何十もの女性とこどもが待っていた。
黄色、みどり、ピンク、青、赤、もうそれは様々な色のサリーがインドにはあるのだけれど、そんなサリーをまとった女性たちが、バーゲンセール開店5分前のように扉にくっついて集まっていた。
ひっきりなしに次々とやってくる患者さん。
忙しさは病院と変わらないか、それ以上なのに、少しのびのびしているジャスミンさん。
そして大好きな女医さんと、私の3人で小さな外来が始まった。

私の役目は女医さんが処方した薬を横で渡して説明する係。
「これ、朝晩1錠ずつね。食後に」
「これ、膣剤だから飲まないで。一日一回入れてくださいね」
「これ、シロップだからスプーンに1杯、一日2回ね」
たどたどしいヒンディー語を繰り返す私に、村の女性は母のような笑顔でくすっとしながら
「はい、わかりました」と答えてくれる。
こういう人と人との関わりが、こういう仕事の醍醐味である。

問診時に聞こえてくる会話にはこんなことがよくある。
「それで?結局何人ダメになったの?」
「2人産んで、2人とも」
「3人産んだうちの、2人」
「何カ月?」
「前の子は2歳半、次の子は8か月」

日本なら、きっと助かった。
場所の違いと、命の重さ。
そして悪夢が日常である悲惨さ。

「妊娠反応出てますよ」
それでもこう伝えると、3人目の子をお腹に宿した彼女は、うつむき加減ではにかんだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
先日デリーからナショナルチームが視察に来るというので、病院は大慌てで綺麗に物品を並べていた。
そんな折、3つあるはずの救急蘇生物品が1つしかないことに気付く。
ジャスミンさんに聞いてみると、
「カナが会議でいない間に2人死んじゃったからね。使ったから今ないの。」
私が1週間ここを空けていた間のことだそうだ。
てっきりベビーだと思ったが、その2人はお母さんだった。

日本では、10万人に5人ぐらいの確率でしかお母さんは亡くならない。
1週間で2人亡くなる。
数値を見て、それを下げに頑張る先進国からやってきたお客。

この現実を前にして。
数値だけでは得られない、その悲しみを知る。

2009-12-05

わたしの一日

朝7時半起床。
一日は洗濯から始まります。
タライを覘きこみ、ボーっと淡々と素早く洗います。
軽く30分ぐらいかかります。

前日の夕ご飯の残りを元に、朝食。
今のところ和食。

8時45分、着替えて家を出ます。
ちなみにインドの人は朝が早く、朝食前にチャイを飲んだり沐浴したりゆったり過ごすみたいです。

もうインドの服しか着てません。
それでも歩けば芸能人。
バイクの人もなぜか横を通り過ぎながら振り返る。
後ろから、外国人と察知するなんてさすが現地人!感心。

からかったり、嫌がらせは誰もしない。
じーっとおとなしく。
でもガン見してきます。
気が向いたら、気が向いた人に「にこっ」のちょっと手前の「にたっ」ぐらいに微笑むと、
はにかむように笑ってくれます。

インドでは騙される。
日本は安全。
ま、同じぐらいの偏見です。

インドに来て、さらにここに来て、人に騙されたことなんて一度もない。
どころか、本当に救われてます。
そりゃあ、仕事が遅すぎて、1日はだいたい1か月ぐらいかかるということが頭でなく心が理解するまで、腹が立ったり悲しくなったりもしましたが。
でもその彼らも、別に嫌な人でもなんでもなくて。
仕方ないから、そこがまた許してしまうところ・・・。

シャイで優しい町。
そんな印象。

ただ、顔が濃いインドの若者男子が、全然イケてない刺繍入りのシャツや服(日本だとチンピラさん)みたいなのを着てバイク3人乗りとかしてると、たとえいい人だとしても、怖いです。
そんな彼らもなぜか朝は早い。

さて、話は戻って、毎朝サイキルリキシャーという乗りもので、病院に向かいます。
行きは、たまたま出会った兄ちゃんからじいちゃんまでの年齢層の運転手と。
10分弱の距離を10ルピー(20円)で、通勤。

チャイ屋の前にいる兄ちゃん、おじさん、おじいさん。新聞読んで、チャイを飲む。
ボーっとして、チャイを飲む。

朝晩肌寒いこの季節。
だいたい春ぐらいの陽気ですが、寒さに弱いインド人は、ジャンパーに耳あてとかしてチャイ飲んでます。
じいちゃんなんて、ロシア人みたいな帽子かぶってた。
私は半袖でも大丈夫。

とりあえず今は県病院という、比較的大きな(日本とは比べ物にならないぐらい小さいです)病院に毎日顔を出しています。
仕事の話はまた別にします。
ちなみに95%ヒンディー語・・・
何もしなくても疲れます。

みっちり病院にこもり、5時に帰宅。
バザールのど真ん中の病院なので、周りは活気に満ちてます。

私の好きなダダ(ヒンディー語で、じいちゃんの意味の呼びかけ)のリキシャーでだいたい帰る。
ダダは容赦なくヒンディー語で何やらインドの話や神様の話や、休日はあそこへ行けだの神様に祈れだの、ウチの孫はなんたらだの話かけてきます。
ダダなのに、自転車立ちこぎしながら、後ろ向いて話ながら私を乗せて走ります。
よくわからないけど、ダダが一生懸命だから、うんうんと言っておきます。
ダダ、せめて前をみてください。










写真撮らせてというと、
「ダメだ。今日はダメだ。ちゃんとした服を着てるときに撮ってくれ!」と。
ちゃんとした服を着てるとこなんて見たことないので、
リキシャーと撮りたいと言って無理やり撮った。
日本に見せると言ったら、満面の笑みでハイタッチをしてきたダダだった。

家の前の道を5mぐらい行くと角っ子に、青空八百屋があって、その向かいに青空クリーニング屋がある。
どちらも2畳ぐらいのスペースで。
2・3日に一回は八百屋によって、クリーニングに白衣を出す(あの病院で着た白衣を自分で洗いたくないから・・・)

3・4日分の野菜はだいたい25ルピー(50円)
服の洗濯・アイロン代は1着3ルピー(6円)

帰宅後、2階のアヌラーダハ(母)のところへ顔を出す。
おしゃべりして、自室へ帰宅。

掃除機も、洗濯機も、冷凍食品も、コンビニも、レンジでチンも、何もないため、生活だけで意外と多忙。
計画停電のこの町は、夜は電気があるけど午前中はありません。
電気仕事は夜にして、23時ごろ眠ります。

2009-12-04

はじまりはここから

首都デリーより南へ700km。
デカン高原の少し上。
インド菱形のちょうどど真ん中。
海はなく、小さな川々はガンガーへ流れている。
小さな県の中心で、いま、毎日を送っています。

半径1kmぐらいの活気に満ちたバザール以外は、
人、牛、犬、馬がポツポツと散らばっていくのどかな町。

そのDamoh(ダモー)という町に11月4日にやってきた。
州都のボパールという町から、車で走ること7時間。
’世界の車窓から’のような道を、ひたすら走る。




















はるか遠くを見て座っている人
きゃあきゃあ走るこどもたち
前も後ろも大草原なのにひたすら歩いているサリー姿の女性達
夕暮れ時に、まだまだ続く道をゆく水牛車
窓からの空気とともに、そこを感じる。

あたりが暗くなった頃、にぎやかなバザールへ車が入った。











これからの2年を過ごす町、Damohへ。














7年間使われていなかったらしい私の住まいは、大家さんのお家の1階を借りきっている。
2世帯のようなおうち





この町の人なら誰でも知ってる医者一家の大家さん。
涙が出るほど優しいその奥さん=いまや私の母。
実際彼女のおかげで私は何度も心救われた。


初日は眠れなかった。
嬉しさでもなく、興奮でもなく、原因は一つ。
こわさ。
犯罪でもない。一人暮らしでもない。インドという広さでもない。
同居人達である。

そう、7年間使っていなかったこの1階。
大量のネズミのフン。どころか、もちろんネズミ。
アリの隊群。角コーナーのクモ。ヤモリ。ゴキブリ。蚊。
蚊帳すら設置できない初日。
日本から送ってもらっていた、キンチョーの蚊取り線香だけを頼みの綱にし、
’どうか神様’と、
とりあえずインドには大量にいるとされる神様にお願いして、結局服のまま寝た。
神様と、キンチョーの全職員のみなさまに感謝して。

もう、年を何回越したかと思うぐらい大掃除した。
自分の家なのに、怖くてトイレに行けず、沐浴できず、涙涙で掃除した。
松居なんとかさんなんて、私の足元にも及ばない。


いまやとても快適なこのおうち。
1か月がかりで手に入れたインターネットで、蚊帳の中、今日ここに書く。


バスのクラクション、サイキルリキシャー(人力車自転車ver)のチリンチリン、
牛乳屋さんの声、の横で牛の声、井戸をひく音、誰かの歌声、

そんな朝をまた、明日も起きる。