Theme of the blog

晴れな人生、生き方!
それでいて、夢がちりばめられていて、ところどころで出会えるといい。
自己満足だとも思いながら、夢の一つである国際協力に踏み出す。

*用語説明*
ANM・・Auxiliary Nurse Midwife(准看護助産師) 農村部で15・6の村を対象にドクターなしで診療所を運営する。分娩から成人・子どものケアまで。

ナース・・・日本のように看護師と助産師の資格が分かれておらず、それ以上のことも行う。例)会陰切開や、縫合など

2011-10-09

最終回

日本に帰って、2週間が経ちました。
ブログを放置していたので、今まで読んでくださっていた方ももうアクセスされていないかもしれませんが、最後の独り言を。
このままこのブログを続けようかと思っていたのですが、インドの2年とこれからの私がぐちゃぐちゃになりそうなのでスパッと止めようと思います。
これからの私は、もちろん今までの私と、インドの私と、ずっとつながっているものですが、ひとつの切り取った思い出として置いておきたい気持ちもどこかにあります。

ちゃんと切り取ることができた日が、インドの日常が ”思い出” になりますように。


フラフラしている私は、会う人会う人から
「これからどうするのか?」
と、聞かれるので、
少し長くなりますが、今の胸の内と手の届くような時間内の予定を書いて、おしまいにしたいと思います。

小さなころから、外国や旅が大好きでした。
いつか海外で働いてみたいという思いは、いつしか途上国での国際協力という形になり、
助産という道は、そのための手段とて踏み入れた道でした。
そうして出会ったこの仕事が大好きで、もう海外はいいかと思う日もありましたが、やっぱり世界を見てみたかった。
一番根っこの部分で自分の手を使った活動をした後は、きっとこう思うんだろうと思っていました。

”一人で動いているだけじゃなかなか変わらない、全体をマネージメントするような立場での国際協力をしよう”と。

半分、それを自分の心に証明するような目的もあって、今回インドに行きました。


ところが。
思ったことはそんなことではなかったのが、事実です。

活動をしている最中も、今も、私のしてきたことは地球温暖化を阻止するために、道にアイスノンを並べているような活動だったんじゃないかなあ。と。
アイスノンで、地球が冷えるとは考えにくいし、アイスノンもすぐ溶ける。
それでもできるだけたくさん、できるだけ効果的に並べるように。
その効果がどれぐらいあるのかは未知数で、結果は私が死んだあとでも出ないかもしれないし、そもそも結果は出ないかもしれない。
地球温暖化は、食い止めるべきれっきとした理由があるかもしれないけれど、お産での死と同じようにそれが地球生命体の運命だって言われたらそこまでのようなところもあるような。
自然相手も難しいが、文化や社会を持つ”ヒト”相手というのも難しいなと痛感しました。

だけど、そのアイスノンを並べる方法を伝えた人、一緒に並べた人、じっと私が並べるのを見ていた人、その人たちが未来のダモーを担うとしたら、それは未来に向けた行動だったんだと肌で実感したのも事実です。
その時、私が思ったのは、
私が一人でアイスノンを並べ続けるより、並べたいと思う人、並べることの意義を同じような価値観で考えられる人を増やしたいと。

”教育” です。




教育には夢がある。

と。

伝えること、教えることの楽しさと難しさを肌で感じ、そして彼女たちのキラキラした目を見ていると、教育という形で自分が生きた理由を未来に残したいと厚かましいながら思いました。


日本の看護師・助産師は優秀な方が多く、私は本当に尊敬しています。
そんな仕事を志す学生に、教育の立場から国際保健という社会に入り込んでいく看護のエキスパートを育てたい。
まだまだ未熟な私ですが、そんな未来の後輩を育てる自分になれたらいいなと思っています。

まずは自分が勉強するべく、進学したいと思っています。
ゆっくりと土台を作っていくことができたら、いつか偉そうに教鞭をとる日が来るかもしれないなと思いながら。


生きた授業をしたいというのが、今の当面の私の人生設計であり、そして当面の”夢” です。

そして、インドで学んだこと。
人生というのは、どこでいつ何があるのか本当にわからないもの。
だから、この夢も、気負いすぎずに頑張りたいと思います。
数年後、全然違うことをしていても許してくださいね。


晴れた人生に、夢をときどき。



今まで愛読してくださり、本当にありがとうございました。


Kana

2011-09-26

さよならインド

今まで、日本で支えてくださったみなさま。
インドで出会い、いつもそばで支えてくださったみなさま。
感謝の気持ちでいっぱいです。
本当にどうもありがとうございました。


今日が、2年間の最後のインド滞在の日となりました。


4日前任地を離れた時は、切ないようなホッとしたような、なんとも言えない気持ちになりましたが、すがすがしい気持ちがあったのも本当です。


思えば2年前の9月28日、夜の遅くにインドに降り立ったのが昨日のような気もするし。
本当に長い間いたような気もします。
いつも離れて暮らしていた同期の3人と、デリーの街中をオートを乗りまわしてはしゃいでいると、2年前を思い出します。

この2年だけでも大きく発展したデリーに感心。
インドに慣れきった私たちに感心。


そして、気付いたらインドのことは大好きです。
今後の私の人生で、インドという国が直接的であれ心の中であれ、大きなウェイトを占めることになるのは変わりないと思います。


また。
きっとこれから、インドについてうんちくを垂れられたり、悪口言われたり、いろんなことを耳にするかもしれないけれど、ここに来る前のインドに対する気持ちとは全然違っているので、腹の立つこともあるかもしれない。


誰の言葉だったか。

「その国を、少し見れば、わかったつもりになって何かを言いたくなる。
知れば知るほど、わかればわかるほど、一言では言えなくなって閉口する。」

インドについて、私は完全に後者です。
そして、今もまだまだ全然わからない。



嫌なことや辛いこともあったけど、”来ない方がよかった” とか、そういう感情は全くありません。


”来て本当によかった”


明日帰る3人ともが全員一致でこの答えだったのが、嬉しかったです。


一生の友達となるような仲間に出会えたこと。
インド人にたくさん助けてもらい、本当に楽しかったこと。
お金では買えない時間をたくさんもらうことができました。



2年間、ブログを読んでくださり本当にありがとうございました。
今後は、インドや私の仕事関係など少しでも書いていければと思います。
引き続き、リアルな世界でもよろしくお願いいたします。


最後に。
離れていたけれど、2年間一番そばで支えてくれ、そして元気でいてくれた両親に心から感謝します。



只今、9月27日夜中1時半。
明朝、インドを去ります。

さよなら、インド。

2011-09-20

最後

今日が、最後のダモーとなりました。
これで本当の、任地最後の更新です。


朝は、銀行の口座を閉じ。

デリーから迎えに来てくださった、事務所のスタッフ2人と一緒に病院に行き。

オフィスに挨拶し。

少しフィールドを見学し。

夕方には帰ってきました。


ここに帰ってくると、他人の家ではなくって、”自分の家”のような気がします。


隣のおばあちゃんとその家族に挨拶。
亡くなったおじいちゃんと、私と、おばあちゃんの写真をプレゼント。
一枚もおじいちゃんの写真がなかったので、おばあちゃんは泣いて喜んでくれました。
よかった。


病院から、最近来た新しい産科のドクターがわざわざ会いに来てくれ。



最後の夜は私の大好きな、プーリーを作ってもらい。



遅くまで、大家さんたちと話をし。



気付いたら、終わりました。


私、どうやらやっぱり、去るらしい。


インド最後の5日間は、移動日とデリー滞在になります。




切なさは、あとから押し寄せるかもしれないけれど。
まずは元気に帰ろうと思います。

2011-09-19

カウントダウン:あと2日

あと2日というか、今日を入れてなので、明後日朝にはここを出ます。


今日は、警察や、銀行や、電話などの諸手続きの予定。


朝、一人の教え子ナースから電話がある。

ここから4時間ぐらいかかる村から、私に会いに来るためだけにダモー行きのバスに乗ったという。
それが結構大変な旅程であることを知っているので、胸がいっぱいになりました。

きっと1時間も一緒に過ごせないのに・・・


ただいま、正午を少し過ぎたところ。

2011-09-18

カウントダウン:あと3日

10時
最後、自分の片づけ&パッキング

13時
ナースの一人に呼ばれ、ゴハンをごちそうになる。

15時
昼寝
(インド人にランチに呼ばれると、そのあと必ず昼寝タイムが設けられる・・・)
寝るのもなーと思いながら、熟睡


17時
チャイ

18時
次に、一番の仲良しのドクター、ガンゲーレさんが私を連れにくる

19時
違う産科ドクターの家へ、挨拶
(に、行ったばっかりに、「明日夜来なさい。ごはん作るから」と言われ、また明日も行く・・・)

20時
ガンゲーレさんのおうちに。
ボパールから、その妹、姪が私に会いに来てくれていた。
感激





夜寝る前に、書いてきた手紙を渡した後は、お互い泣いていたので記憶にない。

別れは悲しい。























2011-09-17

カウントダウン: あと4日

ダモーでの日数、今日を入れて残り4日です。

今日は、家具の搬出。

昨日から雑巾のごとく働き、夜中の3時にとりあえず就寝。

8時
起床。
洗濯、沐浴などを済ませ、

10時
インド人やってきました。
引っ越し屋さんなんてものはないので、最初にお世話してくれたインド人が、最後またお世話しに来てくれました。















11時
キッチンも全部整理して、食糧もなし。
昨日の夜から何も食べてなくてへにょへにょになっているところへ、2階の大家さんが、朝ごはんに呼んでくれました。










11時半
病院から電話です。
「カナ、ちょっと病院まで来て。」
「え!まだ家具出してるところなんだよね・・・。無理かも。」
「12時半でいいから。チームが来るって。(政府とかの視察のこと)」

こんなときに仕事ー?って思いながら、第一弾搬出を済ませて、1時間後に搬出再開すること約束し、病院へ。



12時半
呼ばれてついて行ったら、なんと・・・

みんなが集まってくれていました。
号泣。
院長まで・・・。
チームなんて、来てない。
サプライズだったのよ、とのこと。

外来も一時ストップ、注射も一時ストップ、オペも一時ストップ、お産はストップできないので取ってから顔を出してくれていました。

どこの病院も(日本でもそうですが)、みんなが一斉に集まれないのは医療者の宿命ですが、わずかな時間を割いて集合してくれていました。

やっと、別れを実感して、私のために集まってくれたことが嬉しくって素直に涙がでました。











これで半数ぐらい。


「泣かないの!」と言われ、泣くのが嫌いなインド人に怒られ。

そして、プレゼントしてくれたものが、なんと。


金です。
ゴールドです。
ゴールドの指輪。










インド人らしくというか、値段がついたままで・・・。
その値段をみてびっくり。
ああ、みんながお金を出し合ってくれたんだなって思って、もう胸一杯です。


病院の機能をストップさせているので、30分ほどでまた業務再開でしたが、本当に嬉しかった。

私は何ができただろう。
結局、してもらってばっかりだったんじゃないだろうか。
それでも、
「あの子結局、何しに来たの?」なんて意地悪言う人はいなくって、こんな私をめいいっぱい受け入れてくれました。


14時
家に帰り、家具をすべて搬出し。











今日から2階の大家さんのところで、寝泊まりします。
ホームステイ。











なんの縁もゆかりもない私を、あと4日、ゴハンも作ってくれながら置いてくれる大家さんにも感謝してもしきれない。


疲れ切った体を休めるため、お昼寝しながら夕方。

夕立ちの前の冷たい風と、外を走るリキシャーのチリンチリンや牛の声。
横になりながら、窓からボーーーっと見ていると。

私は、どうしてここでお昼寝しているんだろうという念に駆られます。


”世界も、人生も、不思議だな”

と、虚ろな頭で思いながら。



今夜はみんなにお手紙書きます。

こんなブログを書いてる暇に、大家さんは夕食の支度をしてくれています。













感謝でいっぱい。

ありがとう。

2011-09-15

ごはんに呼ばれる

おひるの12時頃、電話が鳴ります。

分娩室から、バニーシャの声。

「かな、どこにいるの?今日、来てないね。」
「家だよ。片づけ中。出勤してられる状態じゃなくて。」
「今日、うちにおいでよ。シャンティもオフだから。病院に2時に来て。一緒に家まで行こう」


無理。
無理です、どう考えても、この家の状況と、残っている事務作業と、昨日も睡眠が4時間なのに。
でも、逃すともう時間もない。


「んーどうしようかな。とりあえず、2時に病院ってのは無理だから、夕方リキシャーで直接家まで行くわ」
「わかった。待ってる!」


って、ことで、2人暮らししている年下のナースのところへ、行くことにしました。

で、片づけ再開し、30分経過。


「かな! どこにいる?」

次は、小児科のおばちゃんナースから電話。

「い、いえです。片づけ中。」
「今日、夜8時でいいね?来て。ゴハン作るから!」

有無を言わさない強制招待。
さすが年上です。
この時点で、徹夜覚悟。


ものすごいダッシュでまだまだ残っている小さな片づけをやっつけつつ。
3時に電話して、昼寝時なので人っ気の全くないアツイ午後の町をゆき、まずは先の2人のところへ到着。


片づけばっかりして、食糧がないのでゴハンを食べていないというヘロヘロな私に、2人は悲鳴のごとくびっくりし(インドでは、ゴハン食べてないなんてあってはならないこと!)


「夕方って言ってたから、私たちカナの夕食の準備してたの。ランチ食べちゃったよー!?」

と、言いつつ、その夕食用のゴハンを作ってくれました。

「ゴハンができるまで、チャイ飲んで。ビスケット食べな。」
「なんで、ゴハン食べてないの。バナナ食べな。」
「片づけなんて、私手伝うから、電話してよー!」
「座ってて。ローティたらふく食べていいからね。遠慮しないで。TVみて。ほら。」


と、ああ、なぜ。
なぜ、そんなに人にやさしくできるのか、私には理解できないぐらいに根っから優しくって涙が出る。










私のためにゴハンを作ってくれる2人




”無理しても、会いにきてよかった”

と思うのです。

今日あったお産の話から、あの麻酔科医の先生ありえないよねっていう愚痴から、話がとまらなくって、とても居心地のいい時間を過ごしました。

見ていたテレビの映画から、この歌が→
タイミングにびっくりして、一瞬シーンとなった私たちでした。


「行かないでほしい」

という言葉がお世辞じゃないのかな、と思えたのは今日の2人のさみしそうな顔からでした。
私は実感がないというのに。



5時にいったん家に帰り、片づけ再開。
大家さんのいる2階へ顔を出し(そんなことしている場合じゃないんだけど、会いたかった)、8時まで作業。

それからまた迎えに来てもらって、昼電話があった別のナースのおうちに。











e-mailもない。
郵便も盗まれる。
きっと日本に来ることもない。
そんな彼女と、いつかまた会えるだろうか。


「いつでもいい。
電話しなくってもいい。
駅について、リキシャーに乗ってくればいい。
電話ができそうだったら、駅から電話をすればいい。迎えに行くから。
いつでも、いつだって、
来たいと思ったら来たらいいからね。
泊まるところ、どうしようとか考えなくていいから。
突然来て、突然泊まりなさい。

そんなことをされて、嫌だと思うような人は、ここにはいないんだから。」


これが、社交辞令でないことを、インドで暮らした私にはよくわかる。
心から言ってくれているのです。

そんな温かさは、日本ではなかなか感じられなかったような気がして、目頭が熱くなります。

2011-09-14

挨拶、始まり。

あと1週間で、ダモーを離れます。
あと3日で、家具など全部引き渡します。
そのあと4日間は、同僚や大家さんのお世話になる予定。

病院は、24時間365日まわしているので、みんなはバラバラ勤務です。
会えなかったり、会えたりしながら、別れの日を迎えるはずなので、誰とどこでお別れになるのかわからないのですが、今日から挨拶まわりです。

話すと、意外とみんないろんなことを覚えている・・・。
やはり、最初に私が来た頃が珍しく印象も強烈だったようで、最初の頃の話をよくされます。


「メモ持ってさ、みんなの名前をずっと聞いてまわって書いてたよね~あははは。」

「いやいや、今よりもっと白くってさ(余計なお世話です・・・)、髪も短くって、肌もつるつるだったよね~」(正直にどうも)

「みんなにナマステナマステって言っててね」(カーストによって、挨拶しない人いるためです)



2年たったなんて思えない。
なんで帰るの?
私たち置いていくの?

って、さみしいことを言ってくれます。

泣きそうになるのと同時に、実感がない。
毎日がまだ続いているし、全く実感がないのです。


最後の出勤9月20日。
急変とか、緊急を要するような患者さんが来てオペが続くなど、ちゃんと挨拶できないってことがないように、その日だけでも平和にしてほしいです、インドの神様。


「ねえちょっと、これだけはっきりしたいの。教えて。」




真剣な顔で聞くので、なんだ??と思って続けてもらうと、






「カナは結局この後、ネパールと日本、どっちに帰るの?」



・・・・・・・。




ネパール、全く関係ないですけど!


2年経っても、こんなもんです(笑)

2011-09-12

雨の晴れ間の今日

首に臍の緒がまきついていたことが原因だと思うけど、産まれたときには心臓が止まっていました。
でもさっきまで心音はあったから、最後の最後で苦しくなって、逝っちゃたんだな、と思います。
専門知識ですが、分娩監視装置はそれなりにたくさんの命を助けてきたことを実感します。
日本の産科のこともいろいろ新しい目でみなしてみよう。

そのあとは、骨盤位(逆子)のお産がすぐありましたが、初産にもかかわらずなんなくクリア。

大事なケースを連続で見ることができて、研修のナースに教えるにはいいケースでした。
日本だと、初産骨盤位は帝王切開になるので、助産師だけってことはないけれど、私もたくさん勉強できました。

置かせてもらう場所がなくって、先の亡くなった赤ちゃんの横で、逆子のあかちゃんのケアをしていたけど、まさに明暗の図。



「死を習慣にしないで。いつも、できることをできるだけしようって思いを忘れないでね」



とナースに伝えながら廊下を歩いていると、女性病棟で大勢の人が叫び大泣きする姿。
吹きっさらしの大部屋には、他の患者もその家族もどこかのこどもも、牛もいたりして、そんななかにいるご遺体と大勢の家族。



死が習慣になるっていう意味は、どういうことだろう。
その光景をじっとみつめる子供たちをみながら、さっき自分が発した言葉を心の中で考えていました。
目の前のインド人ナースには、そのものの意味が伝わっていないかもなと思いましたが、私が正しいのか自信がなかったので、そっとしておきました。



ふと横を見ると、さっき亡くなった赤ちゃんの叔母さんにあたる人は、日光がふりそぞく広場に4・5人で輪を作って談笑しており、その膝には亡くなった赤ちゃんが日光浴されるように置かれており、その横を牛がブラブラしてました。



口座を閉じる相談のために、銀行に行く私は早退。
雨があがった町は、生きている人で溢れていました。

明日もがんばって生きよう、わたし。

2011-09-11

最後の訪問客

おとといと昨日は、事務所の方が4人も、プライベートな時間を使ってダモーまで遊びに来てくれました。
こんなに何にもないところなのに、その何にもなさに興味を持ってきてくださいました。
車に乗って長距離移動。
道中、村の奥の診療所を見学したりしながら。

なんと前代未聞の、車が5回もパンクをするというハプニングにより、6時半の飛行機でデリーを出発された4人をちゃんとダモーの市内までお連れできたのは夜の11時前となりました・・・。

でも、とっても楽しかったです。

























2011-09-06

酒飲み麻酔科医

以前も申した通り、この広い県で手術ができるのは県病院の1件だけ。
当たり前ですが、手術は麻酔が必要。
この麻酔っていうのが、思っている以上に難しく奥深いものなんですね。(って、私はかけたことがないのでよくわからないんですが、とても難しい領域らしいです。)

麻酔科医って、日本でもすごく少ないって言われているんですが、ここも同じく。
ドクターになる人は、やっぱり直接診たり、切ったり、縫ったりする分野のドクターが多いんでしょうね。


で、その麻酔科医ですが、常駐はいなくって、数か月前に来た新しい麻酔科医も、隣の県から来ている。
なので、緊急時は、麻酔科医がいなくって手術できなくって、車で3・4時間の都市まで搬送です。



問題は、その新しい麻酔科医。


インド(都市部はそうでもなくなりましたが、特にここ農村部なんか)では、飲酒や喫煙は、ドラッグ常習ぐらいの悪とみなされちゃいます。
めっちゃ白い目。


その麻酔科医、24時間お酒臭い。
うえに、ものすごく感じが悪いんです。
多分同い年ぐらい。

別に私には何の被害もないけれど、
帝王切開で生まれた赤ちゃんを何回も何回も叩いたり(呼吸の刺激だとしても、やりすぎ)、
ボールみたいに上になげてキャッチを何回もしたり(ドクターならシェーキング・ベイビーの文献を読んで!)、
使用したチューブなんかを床になげつけたり、

は、もう百歩譲るとして。


適当に麻酔して、麻酔が効いてない!
帝王切開中に、痛くって足動かしてますけどー!
これってすごく危険。
しかも、麻酔を足すんじゃなくって、叫んでるお母さんの顔を叩いて黙らせたり。


誰も言えないんです。
医者だからっていうだけで権力を握っているし、彼がいないと、手術ができない。
本当に偉い人は、偉そうにしないもんですが、ああいう中途半端な人が一番やっかい。


でもそれでも、頼らざるを得ないっていう環境。
ため息もんです。

医療者の方ならわかってもらえるかもしれませんが、キレイ事じゃなくって、自分が責められる以上に目の前の患者さんが痛めつけられてる時の悔しさったらありません。


インドのブラックマネーは想像を絶するぐらいの巨額であり、スイス銀行に隠されているそうですが、そのお金を思うたびに、国ってなんのためにあるんだろうって思います。

”国民を救うためか、殺すためか”


どうせそのお金の保持者もいつか死んでしまうのに。

ばっかみたいです。カネと権力。
本当にばっかみたい。
そんな世界で、キレイであればある人ほど、苦しむ。

アル中の麻酔科医に年間何千もの手術がたくされているっていう環境に、そんなことを思います。

正解は

4日前のこの記事へ補足


わかった!!

バカボンのパパはやっぱり天才。


「これでいいのだ」


この日、私がツラツラと長ったらしく書いたことは、つまり、「これでいいのだ」ということだった事に気づく。


これでいいのだー これでいいのだー

唱えると、すっごく楽になる呪文。

インドはバカボンのパパだらけです。
あーーーー すっきり。


ふざけているようですが、大大真面目です。




歌詞一部抜粋・・・・・ インド人が書いたのかな。(とまで思う。奥深し。)

「崖から落ちて ケガをした だからガケなのだ
これでいいのだ これでいいのだ
ボンボン バカボン バカボンボン
天才一家だ バーカボンボン

赤でスタート 黄でダッシュ それで事故なのだ
これでいいのだ これでいいのだ
ボンボン バカボン バカボンボン
天才一家だ バーカボンボン

バカでなくても バカなのだ それが天才だ
これでいいのだ これでいいのだ
ボンボン バカボン バカボンボン
天才一家だ バーカボンボン」


ワタシ、一人、感動。


みなさんも、しんどい時は(しんどくなくても)、唱えてね。

執刀医の助手

いつも通り仕事してます。

いまさら新しいことはできないので、まあのんびりと言ったところです。


それが・・・・。


「カナ、前に日本はそう簡単に手術とかできないって言ってたでしょ? 手術室ナースじゃないと助手できない。って。 覚えてかえりな!!」

って言われて、


それもいいなー(ここのやり方、30年古くないだろうか・・・心配)って思いながら、じゃ、手始めに日本でもベビーキャッチに入る ”帝王切開” から。

って思ったのが間違い。


見てるだけが、手袋はめるだけになり、手袋をはめるだけから、器具を保持するだけになり、最後は一人助手が完成です。
(注:切ったり、縫ったりじゃないですよ。ナースの業務範囲の助手です)



で、気付いたら何件もやってて、夜8時過ぎてますけど!

ドクター・・・・帰りましょうよー。
みんな、働きすぎです(涙)

上司が帰らないから帰れないっていうこの環境・・・・、 ここはニホンですか!

最後だと思って、文句も言い訳でもできないワタシ。


へとへと。
10時間オペやってる友人、尊敬します。

2011-09-05

どうして知っている?

あいかわらず、道を歩くとちゃんと「ジャパニー」って言ってもらえる、ワタシ認知度の高いダモーです。
(普通は、ネパーリー=ネパールです。)
あと1年いたら、名前で呼んでって言って歩こうかな。っていう妄想しながら歩く。


先週までここを少し離れていました。

帰ってきたら。

「で、帰国するの?なんで?何日?」って言われる。


その、”なんで?” はいるのか? って思いながら。

いや、もちろん仲が良いというかほとんどの人は知っているんだけど、なんであなたが知っている!?
という人まで知っている・・・。
・・・。


みんな、なんで知ってるの?


さすがに町の知らない人は知らないと思いますが(一応人口はすごいです、インド)、活動しているところの知り合いの人はみんな知ってた。


ネタのない田舎。なんでもネタですね。
はやい。


21日の早朝、ここを離れます。
泣くかなー?

2011-09-02

学んだこと

あと3週間となりました。

ああ、何か書いておいた方がいいんじゃないかと思うのですが、何から書こうか。
なかなかあがらない雨音が今日も無音の夜に響いてます。
おかげで涼しい。


暗くなったら家から出ない、やることもない、停電、ネットがつながらない、なんていう日本ではなかなか経験しないような時間がたくさんあった2年間。
考える時間だけはやまほどありました。

人はなぜ生きているのか っていうところも3ラウンドぐらいはしたと思います。


で、そんな時間を「インド」で過ごしたことによって学んだというか感じたことを記しておこうと思います。
こういう目に見えない抽象的な気持ちほど、一番に忘れていくのだと思うので。


頭ではわかっているつもりでしたが、日本にいると本当の意味で気づけなかったなと思います。


”シンプルでいいということ”。


幸せの基準は、他人の基準じゃなくていい、自分の基準でいいってずっと思っていたけどその本当の意味はわからなかったし、日本のような複雑・混沌・情報社会では、心から思えなかった。
比較的自分勝手生きていたような気はしますが、それでも誰かと比べてる自分がいたし、誰かと比べた判断を下していたと思うし、それも人間でしょって思ってたからヨシともしてたような気がします。

今も全くないと言ったら違うかもしれないけど、でも今だったら少なくともこう言えるかな。


「でも、自分がいいと思うから、それがいい」


相田みつをさんの ”幸せはじぶんのこころがきめる” っていう言葉、未熟者ながら、なんとなく本当の意味でわかったような気がするのです。


たくさんの道を生きる人々。
たくさんあるようにみえて、限られた、選べない道であること。
好きなものにはまっしぐらでキラキラしているインドの人。
医者もエンジニアもパイロットも、世界を救う人を目指す人も素敵だけど、自分がいいと思った道を進めという人。
それでも生きていればいいじゃないか、生きているのは素晴らしいんじゃないか、っていう人。


そんな中で生きていて、大事なことはなんなのか、とてもシンプルなものだと感じることができました。



どんな道を歩くかわからないですが、自分が幸せだと思った道を、少なくとも着飾って虚勢をはったり、誰かに恥じたりすることはなく歩きたいと思います。


時には迷うと思うけれど、インド人のように前向きに。

2011-08-18

同期と2年

疲れているけど、今日の気持ちを書いておきたい。
だから、10分だけ寝るのを遅らせます。

今日、首都のデリーで隊員総会と言って、インド中の隊員が集まって(といっても10人ですが)、それぞれの活動の共有をする会議がありました。

1人1人、どんな活動をしているか、そして私を含む同期の2人はどんな活動を”してきた”か、を発表しました。

いろんなことで手がいっぱいだったので、おとといダモーから夜行が出発したあと、電車でやっとPCを開きました。

さて、作成するスライドに何から書こうかと思い、まず第一枚目に「帰国報告」と打ち込みました。
そのパソコンの「帰国報告」という文字を見たときに、胸の奥がぎゅっと締めつけられて、目頭が熱くなりました。


2年という歳月はとても長く、思い起こせば起こすほどたくさんの情景や感情が浮かび、入り混じった感情が心をぎゅっとしたんだと思います。
そしてこうやってデリー行きの電車に乗るのもこれが最後だと思うと、窓から見える煌々と照る月と真っ暗な草原がなんともセンチメンタルな気分にさせてくれました。


「インドってどんな国なのか、わからないね!」っていう頃から一緒に歩んできました。

テンションの低い日も楽しい日も、腹の立つことも面白い話もいろんなことを共有して、気付いたらインドのこの生活にはなくてはならない存在で、インドのことを誰よりも同じテンポで語れる仲間になっていたような気がします。
そんな、ずっと同じように歩んできた同期の2人の発表を聞いて、話す空気から出てくる時間の濃密さと仕事の充実具合を思い、そんな姿が頼もしくって。
同期であることを誇りに思い、嬉しかったです。

2人なしには語れない、って言ってくれたまっきーにおもわず涙。
きっと何年たってもインドの空気と一緒にこの感覚を思い出すだろうって。

人との出会いは不思議ですね。
人の出会いを大切にすること、人とは何か、インドでたくさん教えてもらった気がします。


望んでやって来たとはいえ、都会であろうと田舎であろうと仕事は違えど、外国で生活、ましてやインドのような途上国で生活するっていうのは大変なことでした。

普段は何100キロも離れたところに住む3人ですが、それぞれの形でそれぞれの思いを持ちながら、頑張れたことが素直にうれしい。

ありがとう。



あと1カ月、一緒に空港を出る日までがんばりたいと思います。

2011-08-14

見られない

お祭り続きのインドだと申しました。

やること多すぎて(主にPC、卓上の仕事)、ひきこもりになりたい気持ちとは裏腹に、ゴハンに呼ばれる・・・。
で、そのたびに ”こんな生活もあと数日。二度と来ない時間を考えて、仕事は後回しだ” ってやってるうちにいつも夜中に起きることになっています。
ただいま1時。

今日はラクシャ・バンダンだったため、「家に泊まっていけ」と言われましたが、それだけは勘弁ってことで9月に泊まる約束をして帰ってきました。

で、今日その家まで歩いている途中でふと思ったこと。

“見られない”


いや、正確には ”見られているようにはあまり感じない” ってことです。



っていうのも、2年前私がここに来た頃。
外国人もとより、他の州のインド人だって来ないような何の特徴も観光もない貧しいこの町の人達は、それはそれは時間が止まったかのように棒立ちになり、走る車をとめて、会話をとめて、ふりかえって私を凝視したものでした。

あっけにとられているとういか、鳩が豆鉄砲。

とにかく、肌が白くて目が小さいこんな人種を見たことないので、珍しくって仕方がない。
外文化が全くといっていいほど入っておらず、一番近い都会まで300kmあり、識字率50%のこの町。
ニホンジンなんて想像つかないから、みんな「ネパール人が来た」ってヒソヒソしてました。
(外人=ネパール人)
そもそもこの私の住むマディヤプラディシュ州は、日本の0.8倍ぐらいの面積があるにも関わらず、在日本人は知ってる限りでは片手ですむぐらいです。
企業もない内陸地、世界中どこにでもいる日本人でこの数。
その、一番近い都会(というか州都)にだって、たったの1人のはずです。


それはそれは、嫌でした。
だって、何してもジっとあのデカ目で凝視されているし、見られることのストレスって今まで感じたことがないもので。
1年ぐらいは本当に嫌だった。

「チンキー(中国人)!」関連は、首都デリーや都会より少ないと思います。
たまーにあるけど、ほんとたまに。
田舎の人達は、そんないじわるあんまりしないです。
侮辱とかより、ビックリして見るって感じで。


てか、もうみんな知ってるから。

今日は歩いてて、下校中の子どもが、
「ジャパーーーーン」って言ってました。
すごいな。

大人は、2年も経つと特に興味ナシ。



あと1カ月だから、”なんでもいいわ” って気になって、とっても楽なキモチです。

もしくは、肌が黒くなりすぎたのかな・・・。
それはないと信じたい。

2011-08-12

普通の1日

普通の日。

9時頃に、迎えのリキシャーがきて、病院へ行きました。
昨日で1クールの研修が終わってANMの4人は村に帰り、本当なら今日からまた始まるところですが、これからしばらくインドではお祭りや独立記念日続き。
いそがしいので(お祭りで)、研修は一時ストップです。

特に村にでかけようっていう気もなかったし、なので、精神的にらく~に出勤。
あーうん呼吸の分娩室ナースのバニーシャとお喋りしながら、さらっと3時間で5件お産をとる。

至って安産だったので、教える研修生もいなくて暇な私はルンルンでお産をとりました。
「やっぱ2人ぐらい配置されてるとスムーズに仕事できるよね」って言いながら。
2人でてきぱきお仕事です。


2時には切り上げて、午後からのクラスもないし帰宅。
昼ごはんは自炊だなーと思いながら(いつも研修生とおいしいカレーを食べる)、帰る支度をしていると、仲良しのドクターが「帰ろー」と連れ退勤のお誘いに来ました。
ついでに、家によってけと言われて、お腹が空いていた私は喜んで家に寄りました。
完全にゴハン目的です。


そのあと、ドクターのお父さんがボパールから遊びに来るっていうんで、駅まで一緒にお迎えに行きました。

なんてこと。

インド全土共通の明日のお祭り ”ラクシャ・バンダン” のせいか、帰省する人などで町も駅もごった返し。
予約のいらないローカル電車が駅についた時は、年末の東京駅よりひどかった・・・。

降りる人が降りれなくって、乗る人が乗れなくって、15分ぐらい電車が動かない。
こんな過疎地でプラットフォームの床もみえないぐらいの人で、お父さんをみつけることもできず。
そのまま電車はうごきはじめます。(インドの電車はドアあきっぱで走ること多し)

みつかったときには、車両の入り口で乗る人に押されているお父さん!
電車出ちゃうから(ていうかもうノロノロ走ってる)、必死で乗りたい人と、必死で降りたい人が怒鳴り合い。
必死でひっぱって助け出した時には、お父さんもドクターも涙目でした・・・。
わたしもなんだかわからず涙目。


「ねえ、インドさ、もうちょっと人口削減がんばろうよ」って私が言ったら。


「だから毎日避妊手術頑張ってるよねー私達・・・」ってドクターも笑って言ってました。


リキシャーでだらだら帰るんですが、道の真ん中で大勢の牛が全然どいてくれなくって、わざわざリキシャーから降りて牛を手でおいやる運転手。


ちなみにこないだ。
ホントに刺激的な国!って言って友達がインドの写真を送ってくれた。
どっからどうみてもただの日常で、何の刺激も受けなかった私。
やっぱりインドに住んでるんだな、って再確認しました。
何も感じない・・・。
日本に社会復帰できるかな。



今日はカメラ持ってなかったので、これはネットから拝借した参考資料です。
さすがに、電車のうえには乗るほど人はいませんが、ダモーには・・・。でも左の写真ぐらいの混雑でした。


















ダモーの牛さん。



2011-08-03

今日のひとこと

今日、還暦のナースに言われました。

「カナはもう友達なんかじゃない、敵なんだ!」

小指を立てて。

人差し指と中指をクロスすると、友達。
小指を立てると、敵です。(トイレ行ってくるよの意味もアリ)


なんかやったかな、と思い、冷静に聞いてみる。

「なんで?」


「だって! 日本に帰っちゃうじゃない! 
友達でいると辛くてたまんないから、もう今日から敵になろう!そしたら辛くない!もう話さない」って。



「最初敵だった人と友達になれることはあっても、
最初に友達になった人は、敵にすることはできないよ。」


って言ったら、インド人に大絶賛されました。
拍手喝采。


ポエムとか、格言とか、ロマンチックとか、好きだなーそういうの。


私の、降ってわいた今日のひとことです。



横で聞いてた人が小さな声で、


「別れのことは考えないことにしてるの。考えるだけで辛い」


って言ってるの聞いて、涙でそうでしたよーーー。やばい。


あと50日。

2011-08-01

汚い

少し前に、某途上国から事務所のスタッフ(日本人)がダモーまで視察で来たとき、各国の途上国で仕事をされてきたというその人、一言いいました。

「これは・・・・これはひどいわ。」って。

「いままでみたどこよりもひどいね。ネパールの奥地よりね。・・・うう、これはひどい」って。

難民支援してた友達もね、言ってましたね。
「うーん、ひどいね」と。


なんでしょうね、汚いのです、病院もなにもかも。
そりゃ、技術とか態度とかも申し分ないぐらいヒドイんだけど、とにかく病院なのに衛生が悪すぎる。
子猫大のネズミがいるし。


アフリカの診療所も、ラオスの診療所も、タイの難民病院も、イエメンの病院も、ここよりずーーーとずーーーーとキレイだったし、街中ゴミだらけってことは少なくともなかったな。


私の独断ではなく、これ、絶対カースト制度が骨の髄まで染み渡っているせいだと思います。


どこの国でも、環境整備はナースの基本中の基本です。
というか、ゴミをそこに捨てても、捨てなくても、結局困るのは自分であり、結局片付けるのは自分っていう構造が家でも仕事でもそうだと思うんですが。
インドの場合、極端な話(でもないか、日常的に)、オフィスのデスクまわりをゴミだらけにしようと、家の中にゴミを捨てようと、もちろん病院の床をゴミだらけにしようと、それを片付けるのはシュードラカーストのゴミ掃除の人だけです。
その片づける人のことを思って、じゃあゴミ箱に捨てようなんて思いはこれっぽっちもない。
だって、自分より下のカーストだよ?ってな話です。
どんなに汚しても、少し後にはキレイになってる。
そんなことが幼いときから続いている社会。
他の国での在住経験があるような、博識あるインド人ならまた違うかもしれませんが。
少なくとも伝統的文化で暮らすインド人圏は絶対にこうなってる。


もしも、間違って、ゴミが床に落ちてしまっても?
床に落ちたものを拾い上げるなんて、地位のある人がやってしまってはいけません。
「やらない」ともいうし、地位バランスがぐちゃぐちゃになってインド人同士が混乱・対応できなくなるので「やってはいけない」のです。

全インドがそうなってる。


そんな国で、小さなときから育っていて、ゴミ箱にゴミを捨てようというのはとっても難しいんだろうと思います。
日本人の私には苦しい話です。


他の国で、日本人である自分がやることでその背中を見せる活動をしよう、とかいう話ありますが。
そんなの本当に効き目なし。
そんなことしても、完全なる階級社会には通用しないってわかりました。


些細なことですが。

それでも、病院でゴミをとりあえずゴミ箱に捨ててくれる時が多くなってきたのは、嬉しいことです。

拾いはしませんがね・・・。

2011-07-29

赤ちゃんの死

何百人とりあげたのか、もう数えられなくなったのでわからないんですが。
人口に比例して、2年にも関わらず多くはインドの赤ちゃん。
私が助産師になって7年。
直接手を触れなかった例を含めると、無数の出産にたちあわせてもらってきたと思います。
これからも、多分ずっと。



今日5カ月で早産になった赤ちゃんを手にして、臍の緒を切ったり、胸にあてた人差し指から伝わる心拍を感じながら、周りの音がシャットアウトされたみたいになっていろいろ考えていました。


「IUFD(子宮内胎児死亡)だから」
って、あっさり言われてました。


実際は陣痛がとまらないので、結局産んでもらうしかない選択で、生まれても700gそこそこの赤ちゃんを救う術はないので見守るしかできないことをみんな承知です。
だから、一銭のお金もないお母さんに最初っからそう言ってました。

そのお母さん(といっても19歳)を目にしたときは、すでに頭が見えてましたが、”生きてるな”って思いました。

”この子生きてる”

わかるんですね、ほとんどは。外からみても。

小さすぎる頭を手のひらに感じながら、そこから周りの音がスーッと消えていきました。



もちろん日本でも、なんらかの原因で赤ちゃんが生まれる前に亡くなること、死産になること、生まれた後に亡くなることはありますが。
その確率はここらの国とは比べ物にならないので、稀なケースだったり、本当に現代医療ではどうしようもなことだったりします。

でも、そうそうあたるケースでもないのと、あっても蘇生の余地や治療の余地があるのが日本。

ここではそうはいかないので、一生分の赤ちゃんの死を目にしたように思います。
それぐらいたくさん、ということ。


ぷはー ぷはー って小さく息をし、胸から伝わる心拍は正常で、つくりももちろん人間なんだけど、まだまだ未熟でふにゃふにゃです。


答えはわかっていたけれど、多分自分で決断を出すのが怖かったのだと思う。
というか、自分で下した責任を回避したかったんじゃないかって今思いだすと情けないけど、近くにいたドクターに一応確認しました。

「どうしますか。蘇生しますか」って。

「維持できないのよ。蘇生してどうするの」って。


そうですよね、って思いながら、臍の緒を切る。

日本だったら、NICU(新生児集中治療室)があるな。
でも700gだと厳しいか。
(NICUの光景を思いだして)あんなに電気や器具を使うことができるなんて、恵まれてるな。
ていうか、その前に早産を防ぐな。
そんなこと考えたところで、ここはインドの田舎だった。

って。


家族は、いつも通りぞうきんみたいな布を持ってきてました。
「もう少しきれいな布ない?」って聞く私に、
「この子は別に清潔じゃなくていいんじゃない?(だって死体だよっていう意味)」っていうナース。

清潔概念があることはいいことです。
でも人間なのにね。ってまだ消え入りそうだけど動く心臓をみながら、話しかけてみるけど赤ちゃんは眠ってました。


ここに来た頃は、おお泣きでした。
泣くのはハシタナイっていうインドで、そしてプロ意識としてぐっと我慢するんだけど、救える命が消えるというのは感情コントロールにするとかなり上級で、私にはそんなうまくコントロールできませんでした。
もう手の施しようがない時だって、それがたとえ患者と看護師という立場であっても、人が亡くなるというのは結構くるものです。

救えることを、救える環境があることを知ってる私は逆に不幸なのかもしれないとも思いました。


はじめから亡くなっているとわかってて、その子が生まれる手伝いや
希望が地獄に変わる瞬間や
そういうのをあんまりにも見すぎて、それがときに ”ヒトの死” だって忘れちゃうんだな人間は。
って思います。

だって、自分だって今日涙の一滴どころか感情の波すら来なかった。
それはモノ扱いだからとか、赤ちゃんなんてどうでもいいってことじゃなくって、凍結させるんですね、自分が自分のこころを。
でないと、あまりにも非日常の死にまみれてると精神がおかしくなっちゃってやっていけない。
でもどこか切ないです。


喋らないけど赤ちゃんだって人間。
お腹の中でも外でも、それは ”人の死”。

そんなこと、毎回毎回真剣に感じる暇がないぐらいそういうことばっかりなんです。
いつか自分が妊娠したり、こどもを持つとき、そんなことが起こったら。
死をまともに受けることができるんだろうか、って。



ただ、慣れるということは怖いけど、そんな私も人間。
死の受け止めかたが変化しているだけと思いたい。


ただ、悲しむこと、泣くこと、嘆くことが人間の正しい反応だとされるなら、インド人は異常なのか。


そうじゃないと思います。
なぜそうなのかを考えていける自分でありたい。
その事実を批判するのは簡単だけど、どうしてかまでを考えないと何も変わらないんだと思いながら。


命の価値なんて比べるものではないって思ってた、いやそんなこと思いもしなかったけど、そうでもない。
それは日本人である私の価値観だったんだな。
何が正しくって、何が間違っているっていうのは、結局決められないことのほうが多いっていうのは、他をみればみるほど思うこと。

命の価値がここよりずっと平等な日本に帰ったら、ゆっくり考えたいと思います。

2011-07-24

7月のこと

なにがなんやら。
いそがしい。
気持ちだけ焦ってる感じがするだけで、のんきすぎる私はてきぱき動けません。


ざっと7月のことを記録。

前半は、デリーの北部、ヒマラヤがみえるデラドゥンという町のNGOを訪問しました。
村に出かけて(結局ここまできて村に行って観光はできず・・・)、思春期の女の子達に、”生理とは” とか ”いのちっていうのはどういうことか” とか 自分の体を知ってもらうことで健康意識を持ってもらうように少しお話してきました。
なんで? ってお思いかもしれませんが、思春期性教育も助産師が専門とするお仕事の一つなのです。

真剣な目でじーーーっと卵子の話を聞いてくれました。

















中旬は、デリーから訪問者。
同い年ですがインド歴は私の後輩にあたるお友達が、ダモーに遊びにきてくれました。
まだインドに来て半年、そして大大だーーーい都会デリー(私的にはあそこは東京)に住む彼女にとってはきっと異国だったことと思います。
雨の合間を縫って、村までひっぱりだして連れていきました。
誰かが来てくれると、楽しい。
写真はお友達のブログをどうぞ→こちら☆(まるなげゴメン)



はい、後半の今ですが。
先日、ずっと温めてたスイーパー(お掃除の人)&アヤ(看護助手さん)達への勉強会をやっと実施。
って言っても、私は無理やりオフィスに打診したのと、日にちと対象者と内容をざっと決めただけで、やってくれたのは産科医の先生です。














その方が説得力も集客力もあるので、それでいいんです。
早速いろいろ自主的に工夫しはじめた姿をみて感動!



母体死亡は少し減ったものの、なかなか減らない新生児死亡に少しでも貢献したく、さっさと退院しちゃうお母さん達に健康教育できないかと、紙芝居のようなスライドを今は作成中です。














目標は、あの汚く暗い病棟で、研修生に紙芝居を使って、母乳の必要性(途上国は特に。衛生概念もなく、水が感染源なので、母乳だけで育てることで救える命がたくさんです)を主に訴えようかなと。
ま、私の差し迫った帰国までに定着させるのは非常に困難ですが・・・。




というわけで、帰国日9月27日成田着で決定です!
暇を持て余す予定の私と、みなさん遊んでくださいませ。



追伸:

関係ないけど、ヒンドゥー教をはじめインドでは結婚できる時期が決まってます。
”神様が起きているとき” らしいんですが(神様って寝るの?!・・・インドらしい)、それに伴い、出産時期も重なります。
いま、まさにシーズン。
早く終わらないかな~(あるまじき発言) 
今ごろ神様は寝てらっしゃることかと思いますが、一日40人近く生まれて、多忙でみんな倒れる寸前ですよ。。。
人間も4カ月ぐらい寝てみたいもんです。

2011-06-26

28%

この間デリーに遊びに行った時、インドで日本語教育に携わっているみなさんと一緒にお食事に招待していただきました。
会員しか入れないっていう、その会員になるにはお金がとてもたくさんいるような、そんな会員専用のレストランへ。
ラッキーな話です。
周りをぐるっと見渡したところ、日本だったらウン十万になるようなシルクやコットンのサリーを身に付けた方ばかり。
ラッキーな話です、ほんと。
上品な料理だらけ。


どんな話の流れでだったか忘れましたが、ご招待してくださった先生がおっしゃいました。
「あなた達、日本語教師の方が関わっている、つまりインドで日本語を勉強しているような層というのは、インド全体のたった28%でしかなく、その28%だけをみているのよ。残りはこの方(私のことです)が体験しているような、インドなのよ。」と。

28%をどうとらえていいのか、ダモーに帰る電車で考えてみたのですが、よくわからない。
それもインドで、これもインド。
日本なら、そうそう相違がないことも、広くて格差がありすぎるインドでは、まるで別世界になってしまう。
それがいつしか
”自分のみてきたインドは、一体どういうことだったのか”
 っていう考えに変わっていきました。

住んでいても、たまに疑うんです。
ここは、一体どこだろう、インドは実在するのか、って。
いつも寝ると次の朝には大都会デリーに変わっている夜行列車は、私にとってどこでもドアであり、同じく寝るとダモーに帰ってくる列車は、過去の時代に戻るタイムマシーンのようなのです。
私にとっては、わけがわからず、奥が深すぎて、現実のような非現実のようなシチュエーションがありすぎて、どっちが ”リアル” かわからなくなるっていう、そういうことを感じる国です。
だから、旅行者の方が言われているような、不思議さやスピリチュアルなインドともまた違う。
そういうのは、楽しい側面(旅行という娯楽という意味)でしか見えてこないのかもしれないな、と。
もちろん、それでいいんです。
私だってよくわからないし、別に知らなくていいこともいっぱいあるけど、とにかく貴重なことなんだっていうことに、やっと実感として気づき始めているということです。


そしてやはり、インドに足を踏み入れる日本人は大勢いるけれど、その中でも非常に貴重な部類に入るのではないかとこの2年を振り返ったわけです。
インドに住む日本人に、いっくら説明しても共感してもらえないことが多々ありすぎて、私がかなりの共通項を持って会話ができたのは、一緒に仕事をさせてもらっていた専門家のお2人だけでした。
あとは、インドの田舎の習慣や文化(この場合は私の州周辺)ことを潜在的に把握しているインド人だけでした。


なぜなら。
まず、旅行者は観光地を訪れるし、どれだけ長く観光地または観光地でないところに滞在したとしても、それは旅行でしかなく、生活に必要なこと(たとえば普通の人がする買い物の仕方、お祈りの仕方、食べ物の食べ方、親のしつけ方、家族の在り方、学校、病院・・・etc)が見えにくい。
これは、私みたいなボランティアなら多くの国で体験していることかもしれないな、とも思いますが、都市生活だと日本のように個人プレーが多く、なかなか見えづらい。
そういう意味で、非常に貴重な経験です。
何になるわけでもないかもしれませんが。

あとは、田舎で仕事をしているとはいえ、こんな本当に、何にもなく、外国どころかデリーにすら縁もゆかりもないようなところに住む人は嫁入りぐらいしか機会がなく、そんなこと安全面から考えても個人で入ることはできないし、知る限りは一人もいません。
インドは、インド人は世界ーの人口になろうとしており、そして世界に進出している人もたくさんいますが、性格の傾向から言うと非常に保守的な部類の人達ではないかと思います。
そんな国の田舎町に、仮に物好きの日本人が一人で住むとなれば、それは非常に困難なことも出てくるのかと。
私も、J〇〇Aという後ろ盾がなければ困っただろうなと思うことが多々。

大きな格差も無い分、教育を受けていない人や貧困層が多く、彼らと接する機会があまりに多くそれらに日常的に出会うこと。
最貧困州に指定されるはずだ、ということを肌で実感していくたびに、これらが頭で整理される日はくるんだろうかと思う体験と情報に溢れるのです。


ほとんどの人は、妊婦検診を受けずに突然やってきます。
「どうして受けなかったの?」と聞くと、
「注射(破傷風の予防接種です)はしたよ」と。
「でも、血圧も高いし、赤ちゃんも逆子だよ。お産は何があるかわかんないから、検診は受けないと」っていうと。
「大丈夫よ。みた感じ。」って、自信満々で譲らない。
みた感じで大丈夫なら、病院はいらないんですが、ハイハイハイハイと言われて話が通じない。
お金なんてかからないんですよ。タダです。
でも来ない。
亡くなって、その事実を嘆くけど、それが検診を受けたからどうなるっていうところに結びつかない。
それは、検診する側にも原因がありますが、あまりに複雑に絡み合う原因に頭が痛くなります。


でも、そのヒモを解く必要はどこまであるんでしょうか。
そしてその鍵は、私達が握っているんでしょうか。
それともインド人か。


結局やっぱり、孫悟空なんですよ。
一生懸命頑張って飛び回って頑張っても、そこはお釈迦様の手のひら。
やっぱりそうだな、って思って。

だったら、飛ぶことに意味があるのか、っていうのは、生きてる意味を考えるぐらい難しい。



私がこんな誰も知らないインドを体験することになったのは、一体どういうことだったんでしょうか。
28%の人々も、知らないインド。
ただ、意味はなくても良かった、期限付きの2年がここで。
やっぱり都会はエンターテイメントで溢れているけど、ここは帰ってくると安心する。


笑顔で去る勇気はありません。
「なんで帰るの?」って言われて、涙が出そうで無言になってしまった昨日。
一体何人もの人と別れないといけないんだろう。

最後は話が大きくズレましたが、今から別れが悲しい。

2011-06-23

酷暑終わり、雨季です。

ぎゃ。
気づいたら1カ月以上、書いていませんでした。
訪問してくださっていたかた、すみませんでした。
ちょっと、デリー北の避暑地に旅行してました。2週間ほど。



















































ひさしぶりにダモーへワープしました。
「ひさしぶりー!」って笑い合うと、人と素直に再会する喜びを感じて、あんなに ”都会が楽しすぎて、もう帰りたくない” って思った感情も、スルっと脱げて落ち着いてしまうのでした。
野菜の人も、近所の人も、鍵かかってるから日本帰ったかと思ったーって言ってたけど、そんなに近くないんだな、これが。


私が涼んでいようが、どしゃぶりの雨が降ろうが、人がひっきりなしに生まれています、はい、今日も。
”止まらずに 溢れ出てくるインド人。 混雑は 車両のせいか ヒトのせいか”


数日前から始まった雨季。
おかげで気温はぐっと落ち込み、日本の初夏のような感じです。
今年は例年よりずっと激しい雨らしく、突然はじまった雨季で、道路が寸断されました。
我が家も驚愕の事実が起こったのですが、とても公表できるような内容ではないので、知りたい方にはお伝えします。
人生で二度とない体験でした。



美しく、涼しい避暑地の写真とは裏腹に、ちょっとモヤモヤを一つ。



「ちょっと聞いてよ。」

そう言って、今日の日勤のカトリー・シスターが言いました。

「こないださ、
読み書きもできるような人でさ、
ジャバルプール(車で3時間半の小都市)で超音波やってきたっていう妊婦と家族がいたんだけどさ。
名字もティワリでさ(上位カーストだよっていう意味)。
なのに、超音波で女の子ってわかったからって、中絶しに来たよ。
こんくらいの子でさー。」

と、両手で20cmぐらいにして。

「さっきだって、真ん中のベッドで生まれた子の家族泣いてたよね。女はいやだって。」


ここではよくあることだけど、これは深刻で、結局国民が6:4くらいで男が多くなってきているらしい。
インドで、お嫁がいなくなります。


衝撃な話は、まだまだたくさんあるのですが、うまく頭がまわりません。

一つ言えることは。

インドはお金がないわけではないだろうに、その使い方も、政策の立て方も、なにもかも、現場を知らないお金持ちが考えているから、何もうまくいかないのだと。
少なからず、どの国もそういうことはありますが、人間が飛ぶ鳥の風の感じ方を知らないように、
改善を試みる上層部の人達は、貧困層の生活のその現状を想像すらできない。
知ろうともしない。
村のベッドで寝る勇気があるような本物は、この国では望めないのか。

また時に、村の人々の価値観は、あまりに現代の私達のソレとかけ離れており、会話がままならないこともあります。
戦国時代の人に、メールの説明をしているような気分。
具体例はまたの機会に。
結構大変です。



なんとも歯がゆく、不効率な話だらけ。


頭が仕事モードに戻った私は、ただの小さな国からやってきた一般の私にもわかることが、どうしてこの国の幹部はわからないのだろうと、やがて女が消えるかもしれないことも結局どうでもいいと思っているのかもしれないと、そんな一例を耳にして、遠くをみつめるしかなくなるのです。



帰国まであと、97日。
まあいっか、なんて思いながら、カレーを食べる。