Theme of the blog

晴れな人生、生き方!
それでいて、夢がちりばめられていて、ところどころで出会えるといい。
自己満足だとも思いながら、夢の一つである国際協力に踏み出す。

*用語説明*
ANM・・Auxiliary Nurse Midwife(准看護助産師) 農村部で15・6の村を対象にドクターなしで診療所を運営する。分娩から成人・子どものケアまで。

ナース・・・日本のように看護師と助産師の資格が分かれておらず、それ以上のことも行う。例)会陰切開や、縫合など

2011-09-26

さよならインド

今まで、日本で支えてくださったみなさま。
インドで出会い、いつもそばで支えてくださったみなさま。
感謝の気持ちでいっぱいです。
本当にどうもありがとうございました。


今日が、2年間の最後のインド滞在の日となりました。


4日前任地を離れた時は、切ないようなホッとしたような、なんとも言えない気持ちになりましたが、すがすがしい気持ちがあったのも本当です。


思えば2年前の9月28日、夜の遅くにインドに降り立ったのが昨日のような気もするし。
本当に長い間いたような気もします。
いつも離れて暮らしていた同期の3人と、デリーの街中をオートを乗りまわしてはしゃいでいると、2年前を思い出します。

この2年だけでも大きく発展したデリーに感心。
インドに慣れきった私たちに感心。


そして、気付いたらインドのことは大好きです。
今後の私の人生で、インドという国が直接的であれ心の中であれ、大きなウェイトを占めることになるのは変わりないと思います。


また。
きっとこれから、インドについてうんちくを垂れられたり、悪口言われたり、いろんなことを耳にするかもしれないけれど、ここに来る前のインドに対する気持ちとは全然違っているので、腹の立つこともあるかもしれない。


誰の言葉だったか。

「その国を、少し見れば、わかったつもりになって何かを言いたくなる。
知れば知るほど、わかればわかるほど、一言では言えなくなって閉口する。」

インドについて、私は完全に後者です。
そして、今もまだまだ全然わからない。



嫌なことや辛いこともあったけど、”来ない方がよかった” とか、そういう感情は全くありません。


”来て本当によかった”


明日帰る3人ともが全員一致でこの答えだったのが、嬉しかったです。


一生の友達となるような仲間に出会えたこと。
インド人にたくさん助けてもらい、本当に楽しかったこと。
お金では買えない時間をたくさんもらうことができました。



2年間、ブログを読んでくださり本当にありがとうございました。
今後は、インドや私の仕事関係など少しでも書いていければと思います。
引き続き、リアルな世界でもよろしくお願いいたします。


最後に。
離れていたけれど、2年間一番そばで支えてくれ、そして元気でいてくれた両親に心から感謝します。



只今、9月27日夜中1時半。
明朝、インドを去ります。

さよなら、インド。

2011-09-20

最後

今日が、最後のダモーとなりました。
これで本当の、任地最後の更新です。


朝は、銀行の口座を閉じ。

デリーから迎えに来てくださった、事務所のスタッフ2人と一緒に病院に行き。

オフィスに挨拶し。

少しフィールドを見学し。

夕方には帰ってきました。


ここに帰ってくると、他人の家ではなくって、”自分の家”のような気がします。


隣のおばあちゃんとその家族に挨拶。
亡くなったおじいちゃんと、私と、おばあちゃんの写真をプレゼント。
一枚もおじいちゃんの写真がなかったので、おばあちゃんは泣いて喜んでくれました。
よかった。


病院から、最近来た新しい産科のドクターがわざわざ会いに来てくれ。



最後の夜は私の大好きな、プーリーを作ってもらい。



遅くまで、大家さんたちと話をし。



気付いたら、終わりました。


私、どうやらやっぱり、去るらしい。


インド最後の5日間は、移動日とデリー滞在になります。




切なさは、あとから押し寄せるかもしれないけれど。
まずは元気に帰ろうと思います。

2011-09-19

カウントダウン:あと2日

あと2日というか、今日を入れてなので、明後日朝にはここを出ます。


今日は、警察や、銀行や、電話などの諸手続きの予定。


朝、一人の教え子ナースから電話がある。

ここから4時間ぐらいかかる村から、私に会いに来るためだけにダモー行きのバスに乗ったという。
それが結構大変な旅程であることを知っているので、胸がいっぱいになりました。

きっと1時間も一緒に過ごせないのに・・・


ただいま、正午を少し過ぎたところ。

2011-09-18

カウントダウン:あと3日

10時
最後、自分の片づけ&パッキング

13時
ナースの一人に呼ばれ、ゴハンをごちそうになる。

15時
昼寝
(インド人にランチに呼ばれると、そのあと必ず昼寝タイムが設けられる・・・)
寝るのもなーと思いながら、熟睡


17時
チャイ

18時
次に、一番の仲良しのドクター、ガンゲーレさんが私を連れにくる

19時
違う産科ドクターの家へ、挨拶
(に、行ったばっかりに、「明日夜来なさい。ごはん作るから」と言われ、また明日も行く・・・)

20時
ガンゲーレさんのおうちに。
ボパールから、その妹、姪が私に会いに来てくれていた。
感激





夜寝る前に、書いてきた手紙を渡した後は、お互い泣いていたので記憶にない。

別れは悲しい。























2011-09-17

カウントダウン: あと4日

ダモーでの日数、今日を入れて残り4日です。

今日は、家具の搬出。

昨日から雑巾のごとく働き、夜中の3時にとりあえず就寝。

8時
起床。
洗濯、沐浴などを済ませ、

10時
インド人やってきました。
引っ越し屋さんなんてものはないので、最初にお世話してくれたインド人が、最後またお世話しに来てくれました。















11時
キッチンも全部整理して、食糧もなし。
昨日の夜から何も食べてなくてへにょへにょになっているところへ、2階の大家さんが、朝ごはんに呼んでくれました。










11時半
病院から電話です。
「カナ、ちょっと病院まで来て。」
「え!まだ家具出してるところなんだよね・・・。無理かも。」
「12時半でいいから。チームが来るって。(政府とかの視察のこと)」

こんなときに仕事ー?って思いながら、第一弾搬出を済ませて、1時間後に搬出再開すること約束し、病院へ。



12時半
呼ばれてついて行ったら、なんと・・・

みんなが集まってくれていました。
号泣。
院長まで・・・。
チームなんて、来てない。
サプライズだったのよ、とのこと。

外来も一時ストップ、注射も一時ストップ、オペも一時ストップ、お産はストップできないので取ってから顔を出してくれていました。

どこの病院も(日本でもそうですが)、みんなが一斉に集まれないのは医療者の宿命ですが、わずかな時間を割いて集合してくれていました。

やっと、別れを実感して、私のために集まってくれたことが嬉しくって素直に涙がでました。











これで半数ぐらい。


「泣かないの!」と言われ、泣くのが嫌いなインド人に怒られ。

そして、プレゼントしてくれたものが、なんと。


金です。
ゴールドです。
ゴールドの指輪。










インド人らしくというか、値段がついたままで・・・。
その値段をみてびっくり。
ああ、みんながお金を出し合ってくれたんだなって思って、もう胸一杯です。


病院の機能をストップさせているので、30分ほどでまた業務再開でしたが、本当に嬉しかった。

私は何ができただろう。
結局、してもらってばっかりだったんじゃないだろうか。
それでも、
「あの子結局、何しに来たの?」なんて意地悪言う人はいなくって、こんな私をめいいっぱい受け入れてくれました。


14時
家に帰り、家具をすべて搬出し。











今日から2階の大家さんのところで、寝泊まりします。
ホームステイ。











なんの縁もゆかりもない私を、あと4日、ゴハンも作ってくれながら置いてくれる大家さんにも感謝してもしきれない。


疲れ切った体を休めるため、お昼寝しながら夕方。

夕立ちの前の冷たい風と、外を走るリキシャーのチリンチリンや牛の声。
横になりながら、窓からボーーーっと見ていると。

私は、どうしてここでお昼寝しているんだろうという念に駆られます。


”世界も、人生も、不思議だな”

と、虚ろな頭で思いながら。



今夜はみんなにお手紙書きます。

こんなブログを書いてる暇に、大家さんは夕食の支度をしてくれています。













感謝でいっぱい。

ありがとう。

2011-09-15

ごはんに呼ばれる

おひるの12時頃、電話が鳴ります。

分娩室から、バニーシャの声。

「かな、どこにいるの?今日、来てないね。」
「家だよ。片づけ中。出勤してられる状態じゃなくて。」
「今日、うちにおいでよ。シャンティもオフだから。病院に2時に来て。一緒に家まで行こう」


無理。
無理です、どう考えても、この家の状況と、残っている事務作業と、昨日も睡眠が4時間なのに。
でも、逃すともう時間もない。


「んーどうしようかな。とりあえず、2時に病院ってのは無理だから、夕方リキシャーで直接家まで行くわ」
「わかった。待ってる!」


って、ことで、2人暮らししている年下のナースのところへ、行くことにしました。

で、片づけ再開し、30分経過。


「かな! どこにいる?」

次は、小児科のおばちゃんナースから電話。

「い、いえです。片づけ中。」
「今日、夜8時でいいね?来て。ゴハン作るから!」

有無を言わさない強制招待。
さすが年上です。
この時点で、徹夜覚悟。


ものすごいダッシュでまだまだ残っている小さな片づけをやっつけつつ。
3時に電話して、昼寝時なので人っ気の全くないアツイ午後の町をゆき、まずは先の2人のところへ到着。


片づけばっかりして、食糧がないのでゴハンを食べていないというヘロヘロな私に、2人は悲鳴のごとくびっくりし(インドでは、ゴハン食べてないなんてあってはならないこと!)


「夕方って言ってたから、私たちカナの夕食の準備してたの。ランチ食べちゃったよー!?」

と、言いつつ、その夕食用のゴハンを作ってくれました。

「ゴハンができるまで、チャイ飲んで。ビスケット食べな。」
「なんで、ゴハン食べてないの。バナナ食べな。」
「片づけなんて、私手伝うから、電話してよー!」
「座ってて。ローティたらふく食べていいからね。遠慮しないで。TVみて。ほら。」


と、ああ、なぜ。
なぜ、そんなに人にやさしくできるのか、私には理解できないぐらいに根っから優しくって涙が出る。










私のためにゴハンを作ってくれる2人




”無理しても、会いにきてよかった”

と思うのです。

今日あったお産の話から、あの麻酔科医の先生ありえないよねっていう愚痴から、話がとまらなくって、とても居心地のいい時間を過ごしました。

見ていたテレビの映画から、この歌が→
タイミングにびっくりして、一瞬シーンとなった私たちでした。


「行かないでほしい」

という言葉がお世辞じゃないのかな、と思えたのは今日の2人のさみしそうな顔からでした。
私は実感がないというのに。



5時にいったん家に帰り、片づけ再開。
大家さんのいる2階へ顔を出し(そんなことしている場合じゃないんだけど、会いたかった)、8時まで作業。

それからまた迎えに来てもらって、昼電話があった別のナースのおうちに。











e-mailもない。
郵便も盗まれる。
きっと日本に来ることもない。
そんな彼女と、いつかまた会えるだろうか。


「いつでもいい。
電話しなくってもいい。
駅について、リキシャーに乗ってくればいい。
電話ができそうだったら、駅から電話をすればいい。迎えに行くから。
いつでも、いつだって、
来たいと思ったら来たらいいからね。
泊まるところ、どうしようとか考えなくていいから。
突然来て、突然泊まりなさい。

そんなことをされて、嫌だと思うような人は、ここにはいないんだから。」


これが、社交辞令でないことを、インドで暮らした私にはよくわかる。
心から言ってくれているのです。

そんな温かさは、日本ではなかなか感じられなかったような気がして、目頭が熱くなります。

2011-09-14

挨拶、始まり。

あと1週間で、ダモーを離れます。
あと3日で、家具など全部引き渡します。
そのあと4日間は、同僚や大家さんのお世話になる予定。

病院は、24時間365日まわしているので、みんなはバラバラ勤務です。
会えなかったり、会えたりしながら、別れの日を迎えるはずなので、誰とどこでお別れになるのかわからないのですが、今日から挨拶まわりです。

話すと、意外とみんないろんなことを覚えている・・・。
やはり、最初に私が来た頃が珍しく印象も強烈だったようで、最初の頃の話をよくされます。


「メモ持ってさ、みんなの名前をずっと聞いてまわって書いてたよね~あははは。」

「いやいや、今よりもっと白くってさ(余計なお世話です・・・)、髪も短くって、肌もつるつるだったよね~」(正直にどうも)

「みんなにナマステナマステって言っててね」(カーストによって、挨拶しない人いるためです)



2年たったなんて思えない。
なんで帰るの?
私たち置いていくの?

って、さみしいことを言ってくれます。

泣きそうになるのと同時に、実感がない。
毎日がまだ続いているし、全く実感がないのです。


最後の出勤9月20日。
急変とか、緊急を要するような患者さんが来てオペが続くなど、ちゃんと挨拶できないってことがないように、その日だけでも平和にしてほしいです、インドの神様。


「ねえちょっと、これだけはっきりしたいの。教えて。」




真剣な顔で聞くので、なんだ??と思って続けてもらうと、






「カナは結局この後、ネパールと日本、どっちに帰るの?」



・・・・・・・。




ネパール、全く関係ないですけど!


2年経っても、こんなもんです(笑)

2011-09-12

雨の晴れ間の今日

首に臍の緒がまきついていたことが原因だと思うけど、産まれたときには心臓が止まっていました。
でもさっきまで心音はあったから、最後の最後で苦しくなって、逝っちゃたんだな、と思います。
専門知識ですが、分娩監視装置はそれなりにたくさんの命を助けてきたことを実感します。
日本の産科のこともいろいろ新しい目でみなしてみよう。

そのあとは、骨盤位(逆子)のお産がすぐありましたが、初産にもかかわらずなんなくクリア。

大事なケースを連続で見ることができて、研修のナースに教えるにはいいケースでした。
日本だと、初産骨盤位は帝王切開になるので、助産師だけってことはないけれど、私もたくさん勉強できました。

置かせてもらう場所がなくって、先の亡くなった赤ちゃんの横で、逆子のあかちゃんのケアをしていたけど、まさに明暗の図。



「死を習慣にしないで。いつも、できることをできるだけしようって思いを忘れないでね」



とナースに伝えながら廊下を歩いていると、女性病棟で大勢の人が叫び大泣きする姿。
吹きっさらしの大部屋には、他の患者もその家族もどこかのこどもも、牛もいたりして、そんななかにいるご遺体と大勢の家族。



死が習慣になるっていう意味は、どういうことだろう。
その光景をじっとみつめる子供たちをみながら、さっき自分が発した言葉を心の中で考えていました。
目の前のインド人ナースには、そのものの意味が伝わっていないかもなと思いましたが、私が正しいのか自信がなかったので、そっとしておきました。



ふと横を見ると、さっき亡くなった赤ちゃんの叔母さんにあたる人は、日光がふりそぞく広場に4・5人で輪を作って談笑しており、その膝には亡くなった赤ちゃんが日光浴されるように置かれており、その横を牛がブラブラしてました。



口座を閉じる相談のために、銀行に行く私は早退。
雨があがった町は、生きている人で溢れていました。

明日もがんばって生きよう、わたし。

2011-09-11

最後の訪問客

おとといと昨日は、事務所の方が4人も、プライベートな時間を使ってダモーまで遊びに来てくれました。
こんなに何にもないところなのに、その何にもなさに興味を持ってきてくださいました。
車に乗って長距離移動。
道中、村の奥の診療所を見学したりしながら。

なんと前代未聞の、車が5回もパンクをするというハプニングにより、6時半の飛行機でデリーを出発された4人をちゃんとダモーの市内までお連れできたのは夜の11時前となりました・・・。

でも、とっても楽しかったです。

























2011-09-06

酒飲み麻酔科医

以前も申した通り、この広い県で手術ができるのは県病院の1件だけ。
当たり前ですが、手術は麻酔が必要。
この麻酔っていうのが、思っている以上に難しく奥深いものなんですね。(って、私はかけたことがないのでよくわからないんですが、とても難しい領域らしいです。)

麻酔科医って、日本でもすごく少ないって言われているんですが、ここも同じく。
ドクターになる人は、やっぱり直接診たり、切ったり、縫ったりする分野のドクターが多いんでしょうね。


で、その麻酔科医ですが、常駐はいなくって、数か月前に来た新しい麻酔科医も、隣の県から来ている。
なので、緊急時は、麻酔科医がいなくって手術できなくって、車で3・4時間の都市まで搬送です。



問題は、その新しい麻酔科医。


インド(都市部はそうでもなくなりましたが、特にここ農村部なんか)では、飲酒や喫煙は、ドラッグ常習ぐらいの悪とみなされちゃいます。
めっちゃ白い目。


その麻酔科医、24時間お酒臭い。
うえに、ものすごく感じが悪いんです。
多分同い年ぐらい。

別に私には何の被害もないけれど、
帝王切開で生まれた赤ちゃんを何回も何回も叩いたり(呼吸の刺激だとしても、やりすぎ)、
ボールみたいに上になげてキャッチを何回もしたり(ドクターならシェーキング・ベイビーの文献を読んで!)、
使用したチューブなんかを床になげつけたり、

は、もう百歩譲るとして。


適当に麻酔して、麻酔が効いてない!
帝王切開中に、痛くって足動かしてますけどー!
これってすごく危険。
しかも、麻酔を足すんじゃなくって、叫んでるお母さんの顔を叩いて黙らせたり。


誰も言えないんです。
医者だからっていうだけで権力を握っているし、彼がいないと、手術ができない。
本当に偉い人は、偉そうにしないもんですが、ああいう中途半端な人が一番やっかい。


でもそれでも、頼らざるを得ないっていう環境。
ため息もんです。

医療者の方ならわかってもらえるかもしれませんが、キレイ事じゃなくって、自分が責められる以上に目の前の患者さんが痛めつけられてる時の悔しさったらありません。


インドのブラックマネーは想像を絶するぐらいの巨額であり、スイス銀行に隠されているそうですが、そのお金を思うたびに、国ってなんのためにあるんだろうって思います。

”国民を救うためか、殺すためか”


どうせそのお金の保持者もいつか死んでしまうのに。

ばっかみたいです。カネと権力。
本当にばっかみたい。
そんな世界で、キレイであればある人ほど、苦しむ。

アル中の麻酔科医に年間何千もの手術がたくされているっていう環境に、そんなことを思います。

正解は

4日前のこの記事へ補足


わかった!!

バカボンのパパはやっぱり天才。


「これでいいのだ」


この日、私がツラツラと長ったらしく書いたことは、つまり、「これでいいのだ」ということだった事に気づく。


これでいいのだー これでいいのだー

唱えると、すっごく楽になる呪文。

インドはバカボンのパパだらけです。
あーーーー すっきり。


ふざけているようですが、大大真面目です。




歌詞一部抜粋・・・・・ インド人が書いたのかな。(とまで思う。奥深し。)

「崖から落ちて ケガをした だからガケなのだ
これでいいのだ これでいいのだ
ボンボン バカボン バカボンボン
天才一家だ バーカボンボン

赤でスタート 黄でダッシュ それで事故なのだ
これでいいのだ これでいいのだ
ボンボン バカボン バカボンボン
天才一家だ バーカボンボン

バカでなくても バカなのだ それが天才だ
これでいいのだ これでいいのだ
ボンボン バカボン バカボンボン
天才一家だ バーカボンボン」


ワタシ、一人、感動。


みなさんも、しんどい時は(しんどくなくても)、唱えてね。

執刀医の助手

いつも通り仕事してます。

いまさら新しいことはできないので、まあのんびりと言ったところです。


それが・・・・。


「カナ、前に日本はそう簡単に手術とかできないって言ってたでしょ? 手術室ナースじゃないと助手できない。って。 覚えてかえりな!!」

って言われて、


それもいいなー(ここのやり方、30年古くないだろうか・・・心配)って思いながら、じゃ、手始めに日本でもベビーキャッチに入る ”帝王切開” から。

って思ったのが間違い。


見てるだけが、手袋はめるだけになり、手袋をはめるだけから、器具を保持するだけになり、最後は一人助手が完成です。
(注:切ったり、縫ったりじゃないですよ。ナースの業務範囲の助手です)



で、気付いたら何件もやってて、夜8時過ぎてますけど!

ドクター・・・・帰りましょうよー。
みんな、働きすぎです(涙)

上司が帰らないから帰れないっていうこの環境・・・・、 ここはニホンですか!

最後だと思って、文句も言い訳でもできないワタシ。


へとへと。
10時間オペやってる友人、尊敬します。

2011-09-05

どうして知っている?

あいかわらず、道を歩くとちゃんと「ジャパニー」って言ってもらえる、ワタシ認知度の高いダモーです。
(普通は、ネパーリー=ネパールです。)
あと1年いたら、名前で呼んでって言って歩こうかな。っていう妄想しながら歩く。


先週までここを少し離れていました。

帰ってきたら。

「で、帰国するの?なんで?何日?」って言われる。


その、”なんで?” はいるのか? って思いながら。

いや、もちろん仲が良いというかほとんどの人は知っているんだけど、なんであなたが知っている!?
という人まで知っている・・・。
・・・。


みんな、なんで知ってるの?


さすがに町の知らない人は知らないと思いますが(一応人口はすごいです、インド)、活動しているところの知り合いの人はみんな知ってた。


ネタのない田舎。なんでもネタですね。
はやい。


21日の早朝、ここを離れます。
泣くかなー?

2011-09-02

学んだこと

あと3週間となりました。

ああ、何か書いておいた方がいいんじゃないかと思うのですが、何から書こうか。
なかなかあがらない雨音が今日も無音の夜に響いてます。
おかげで涼しい。


暗くなったら家から出ない、やることもない、停電、ネットがつながらない、なんていう日本ではなかなか経験しないような時間がたくさんあった2年間。
考える時間だけはやまほどありました。

人はなぜ生きているのか っていうところも3ラウンドぐらいはしたと思います。


で、そんな時間を「インド」で過ごしたことによって学んだというか感じたことを記しておこうと思います。
こういう目に見えない抽象的な気持ちほど、一番に忘れていくのだと思うので。


頭ではわかっているつもりでしたが、日本にいると本当の意味で気づけなかったなと思います。


”シンプルでいいということ”。


幸せの基準は、他人の基準じゃなくていい、自分の基準でいいってずっと思っていたけどその本当の意味はわからなかったし、日本のような複雑・混沌・情報社会では、心から思えなかった。
比較的自分勝手生きていたような気はしますが、それでも誰かと比べてる自分がいたし、誰かと比べた判断を下していたと思うし、それも人間でしょって思ってたからヨシともしてたような気がします。

今も全くないと言ったら違うかもしれないけど、でも今だったら少なくともこう言えるかな。


「でも、自分がいいと思うから、それがいい」


相田みつをさんの ”幸せはじぶんのこころがきめる” っていう言葉、未熟者ながら、なんとなく本当の意味でわかったような気がするのです。


たくさんの道を生きる人々。
たくさんあるようにみえて、限られた、選べない道であること。
好きなものにはまっしぐらでキラキラしているインドの人。
医者もエンジニアもパイロットも、世界を救う人を目指す人も素敵だけど、自分がいいと思った道を進めという人。
それでも生きていればいいじゃないか、生きているのは素晴らしいんじゃないか、っていう人。


そんな中で生きていて、大事なことはなんなのか、とてもシンプルなものだと感じることができました。



どんな道を歩くかわからないですが、自分が幸せだと思った道を、少なくとも着飾って虚勢をはったり、誰かに恥じたりすることはなく歩きたいと思います。


時には迷うと思うけれど、インド人のように前向きに。