先日、日本人スタッフから読むといいと言われて一冊の本を読んだ。
厳密には、上下で2冊。
インドでは非常に有名なこのプーラン・デヴィという彼女は、下層カーストに生まれ、筆舌に尽くしがたい暴行や差別を受けて、ダコイットと言われる盗賊になり、最終的には国会議員にまでなった女性だ。
一見、差別を受けている人が立ちあがる、ある種聞いたことのあるドキュメンタリーの様に思うかも知れないが、そこには想像を絶するカースト制度の裏側と、インド農村部における女性の実態が描かれていた。
おそらく何百年もたいして大きくは変わってないんじゃないか、と思われるインド。
ITが進んだとか、そういう話ではない。
昔の面影がそろそろ完全に消えようとしている日本のような国ではなく、ずっと根強い慣習や伝統や文化といったものがそこにあるように感じるインド。
そして、私の住む町のさらに郊外は、本に描かれているような生活風景と今もなんら変わりはない。
女性達は、毎朝頭に大きな瓶を2つものせて井戸水を汲んで歩いているし、川で洗濯して、牛糞を手でまるめて乾かしている。
一つも変わってないと思う。
だから、とてもいい面もあり、だから、とても悲しい側面もある。
この女性は、ちょうど私の母と同じ世代に生まれている。
つまり、当の昔の話ではない。
そして、やはりたいして変わってないインドのことだから、きっと今も無数に第二のプーランがいるはずだと思っている。
カーストが、悪いとか良いとか、そういうことはどうしてか、私にはどうも意見できない。
おそらく、インドに来たことがなくって、インドのことを全く知らなくって、よその国で生活していた時に、カースト制度の話を聞いたら、”なんてひどい制度だ!”と憤慨していたのかもしれないけれど。
そんな風には、簡単に言えるような問題じゃない、って、それだけはわかるような気がする。
「人の値打ち」 江口いと何時かもんぺをはいてバスに乗ったら隣座席の人は私をおばはんと呼んだ戦時中よくはいたこの活動的なものをどうやらこの人は年寄りの着物とおもっているらしいよそ行きの着物に羽織を着て汽車に乗ったら人は私を奥さんと呼んだどうやら人の値打ちは着物で決まるらしい講演がある何々大学の先生だと言えば内容が悪くても人々は耳をすませて聴き良かったと言うどうやら人の値打ちは肩書きで決まるらしい名も無い人の講演には人々はそわそわして帰りを急ぐどうやら人の値打ちは学歴で決まるらしい立派な家の娘さんが部落にお嫁に来るでも生まれた子供はやっぱり部落の子だと言われるどうやら人の値打ちは生まれた所によって決まるらしい人々はいつの日このあやまちに気付くであろうか
インドは、着るものや、話し方や、学歴や、肩書きや、しいてはもちろん名字や職業や場所で瞬時に扱いが決まってしまう。
それは差別ではなく、男女が違うように、まさに「区別」のように浸透している。
それって嫌だよね、とか。
それって最低、とか。
間違ってる、とか。
そういうことを発言するのは、簡単なことだ。
私だって、そう思わないわけではないけど、でもちょっと待って、とも思う。
日本にも、いろんな差別も区別もある。
見せないように取り繕っているだけで。
人間がみんなで住む限り、社会がある限り、そういう問題ってずっとあるんじゃないかな。
ましてや、宗教がそれに関与していれば、なおさらのこと。
制度や改革では、人の根本的な思想というのは変えられず、何人か寄れば必然的に形成されていく社会の構図は、ある程度仕方ないとも思う。
大事なのは、わからなくってもいいから、考えたり関心を持ったりすることと、
大切な人は、ちゃんと大切にするってことかな。
未熟な私は、その程度の答えしか出せなかった。
残念だけど。
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