Theme of the blog

晴れな人生、生き方!
それでいて、夢がちりばめられていて、ところどころで出会えるといい。
自己満足だとも思いながら、夢の一つである国際協力に踏み出す。

*用語説明*
ANM・・Auxiliary Nurse Midwife(准看護助産師) 農村部で15・6の村を対象にドクターなしで診療所を運営する。分娩から成人・子どものケアまで。

ナース・・・日本のように看護師と助産師の資格が分かれておらず、それ以上のことも行う。例)会陰切開や、縫合など

2010-02-28

シャカハリ!


有名な話なので、ご存じの方も多いでしょうが。
広いインドでは、食事の体系が大きく分けて2つに分けられています。

ベジタリアン か ノンベジタリアン。
通称、ベジ ノンベジ と言います。

ベジにもいろいろあって、卵は食べる、魚まで食べる、乳製品はOK、など。
ピュアベジになると、卵も食べないです。
今でも厳しい人はそうするみたいですが、ベジとノンベジが食事をともにすることもなかったようです。

しかし、このベジタリアンと言われる方々、非常に多いです。

宗教柄、ベジはヒンドゥー教に多いため、イスラムやキリストのおうちにお呼ばれするとお肉にお目にかかることもできますが、基本はチキンかマトンです。
ヒンドゥー教では神聖な牛は絶対食べませんし、イスラム教では豚は穢れなので食べません。
もっというと、ヒンドゥーでは海のものは穢れ、川が神聖なので、海のものも食べません。

と、まあいろんな区別があって、それがまた非常に細かいです。
飛行機にのっても、「Chiken or Fish?」とかいう有名な文句ではなく、
「veg or non veg ?」 と、聞かれます。

全ての食品には、それがベジなのかノンベジなのかが表記されています。
ベジは緑で、ノンベジは赤で。
都会では、パッケージ品が多いのでよく目につきます。

日本産、ヤクルトは、ベジ!(都会にはヤクルトあるんです。超高級品ですが・・・)









マックチキンは、もちろんノンベジ!









ノンベジにしました、機内食。










私はノンベジですよ、ってたまに話をするのですが、ヒンドゥー教の人の前で牛を食べている話だけはいまだ出来ません怖くて。
なぜか悪いことしていたような気がして・・・
ま、言わなくても支障がないのでカミングアウトしてません。

しかも、田舎で肉を買うのって少々面倒です。
もちろんスーパーなんてないので肉の卸売りみたいなところにいかなければならず、衛生はもちろんいまいちで、そのうえ男がお酒飲んでる危ないとこだから女は絶対あの肉地域に行くな!って周りのナースみんなに言われたのが理由です。
そして、一番近い大家さんはピュアベジなので、卵すらコソコソ食べているのに肉の相談は言えない。。。

そしたらキリスト教の先輩ナースが、たまに息子を私の家へよこしてチキンを届けてあげる!という鶏肉配達を申し出てくれました。
このあいだ、そのデリバリーを一度お願いしたところ、骨つきぶつぎり(まさにブツぎったところです!みたいな肉)を持ってきてくれたのです。
血もついたままでしたが、すごく新鮮でした。
ついでに川魚もくれた。

ただ、私の体が妙に変。

卵屋さんとのタイミングを逃すと、卵すら食べない日もよくあります。
つまりその辺の方同様、ピュアベジ生活歴早4ヶ月。
そうすると、肉とか魚とかみると、「うわ、生き物だ」と体中がなぜか反応します。
ありがたいと思うのだが、バクバク食べてた日本での生活がなんだか不思議に思えてくるからこれが不思議。
そして、まあおいしいのだけれどなんか気持ち悪い気もして体がソワソワします。

自分の環境適応能力にあっぱれ。

だからホームシックとかないんだろうなー・・・と、今日もおいしくベジフルコースをいただきました。


ベジタリアンは、ヒンディー語で、シャカハリって言います。
まさにベジタリアンっぽい音なところが、私は結構好きな単語。


インドの方と食事をするときは、気をつけてくださいね。

2010-02-23

あたたかい

ずっと、外国で働きたいなーと思っていたけど、一つだけ怖いことがあった。
結構何も気にならないタイプなので、ホームシックとか、海外一人暮らし、とかそういうのは別になんてことなかったんだけれど。

思い描く途上国と言われるところは、揃って皆温かい。
いや、暑い。


しかし、秋に赴任してきたものだから、比較的過しやすく、つい数日前まではどちらかというと寒かった。
12月末あたりからなんて、寒さでブルブルしっぱなしだった。
なのでインドの代名詞の一つでもある、”暑さ”のことをすっかり忘れてずっと過していた。

ところが。
ところがだ。

ここ数日温かい~暑いへ変わり始めている。
「んー そうか、そうか、そろそろインドらしくなってきたな」ってのんびり構えていたのだけど。
一つ大事なことを忘れていた。
暑くなると、みんな活発になることを。

生き物、みんな。

排水がよくないので、コバエが大量に発生して、どうしよう・・・って思いながら対処していた。
その時に気付けばよかった。
これがサインだったんだ。

それから、しばらく出ていなかったネズミさんがうっかり人間の前に姿を現したり。
いない間に、ウ○チをしていくから、その精神的ダメ―ジといったらない。

はー疲れた、って思って仰向けになったら、今まで見たことなかったのに、すぐ上にヤモリの家族がいたり。
帰宅後しばらく普通に過していたのに、ふと横をみるとスズメがいたり。

みんな静かだから気付かないんですよ!
でも、その存在を発見したときのビックリを考慮して、もうちょっとアピールしてほしい。

ヤモリぐらいで何言ってんだ、とか思うと思いますが。
都会生まれ都会育ちの私は、根っから、虫とか爬虫類、だいきらいなんです。
ホラー映画と同じくらい。
だったらこんなとこに来るなと言われそうですが、生理的なものと人生の充実はこれまた別の話なので、勘弁してください。

途上国って言われるところで住みたい、その代償がこの恐怖。

週末、隙間とか、穴とか、どうにかして埋められないか格闘を試みようと考え中。

2010-02-22

厳しい毎日

今日もまた赤ちゃんが瀕死だった。
こんなことばっかり書いてると、ほんとに亡くなってばかりのように映るかもしれないけど、本当に亡くなってばかりなのだ。
嘘ではなく。
もともと母体数が多いから多いように見えるのかもしれないけれど。

ちょうど小児科で、小児科医に、新生児の蘇生についてANMを指導してもらっている時だった。
サリーのぼろ布にくるまれた赤ちゃんを抱えたナースが走ってきた。

”実践だ”
と、思い私はANMを連れて行く。
今日のその子は、ふくよかで、ちゃんとお腹でしっかり育ったんだなと一目でわかる子だった。
頭は2倍に膨れあがっていたので、遷延分娩(いわゆる難産)だったんだろうとわかる。
分娩室にはいなかったから詳細はわからないけど、いつもの感じと、分娩室から小児科までの距離を考えても、当に5分は過ぎているはず。
目をパッチリ開いたまま、まばたきもせず、手足をピクリともさせずやってきた。
ちょうど電気がない1時~2時の間に。

小児科医がいるので出る幕もないか、と思いながら見ていたが、なんて素人同然の蘇生なんだろう。
私一人でやった方がよっぽどマシだと思いながら見ていた。
でも、そこはヨソモノが押しのけて入れるような世界ではないのが現実。

15分ぐらい、バギング(酸素を送ること)と心臓マッサージをしたところで、
「ぷはー・・・」とゆっくり呼吸をした。
大人のようにゆっくりの自発呼吸。
体は冷たく、だらんとしている。
ぷはー が何度か続いたところで、蘇生が終わった。
諦めではなくて、安堵で。
今晩死んでしまうか、後遺症が残るか、どんな人生を送るかな・・・と、安堵するみんなの横で一人考えていた。
赤ちゃんの外表所見と、状態から見て、やはり今回も分娩経過で起こった仮死だろう。

わからないけど。
日本でもそういうことはあるから、何が原因か今となればわからないけど。

どんな死も必ずやってくるもので、どんな死も悲しいが。
10か月、待ち望んでいた母や家族の愛情や希望への光、しっかり育った赤ちゃんのこれから続くはずだった人生を考えると、「お産での死」というのはなんて残酷なんだろうと毎回思う。


何がいいのかよくわからない。

それでも、今日の蘇生ができるぐらいの物品すら無くて、亡くなった方がマシだったか。
後遺症が残ったって、生きていることが大切か。
早く気付いて帝王切開にしていれば助かったか。
お産をうまく進められるようなケアがわかっていれば起こらなかったか。


生きるって、生かせるって、なんでしょう。
改めて、生死を左右する、尊いがともすれば驕り高ぶってしまう仕事だな、と感じた。
驕ってしまわないように、謙虚に事実をみつめるようにしないと、自分までおかしくなってしまうんじゃないかと考える。
現に、最初の頃のような激しい悲しみが、戸惑いが凍った感情みたいに冷たくなっているのを感じる。
これがプロってことか?
って、臨床に初めて出たあの頃も、よくぐちゃぐちゃに頭をかきまわされたのを思い出す。


今日は隣県へ引っ越しする同期を見送るディナーだったが、ずっとそんなことを考えていたので、心半分で申し訳なかったなと思う。
この場でごめんなさい。


心の底から嬉しいときも、どん底に悲しいときも、自分の感情が一番落ち着いて楽になる曲があるので、
今日もそれを聞いて、休むことにします。


名曲
”チャイコフスキー バイオリン協奏曲ニ長調”

2010-02-20

癒されて・・・

今までに病院で研修を受けたANM(準看護助産師。他記事参照)数人を連れて、隣ブロックの群病院、末端の診療所へ見学の旅へ行った。
昨日のことだ。

本当は昨日そのことを書こうと思っていたのだけれど、360度大地が広がるようなところを車でずーっと走って帰って来て、いろんなことを感じているうちにインドやインド人への気持ちがいっぱいになったので、あんな記事になってしまった。

10時にダモーを出発する予定だったのに、10時前に来たのは私と後一人だけ。
2人、また2人、ポツポツ集まりだして、結局19人参加の予定が9人なんだろうと判断がついたのは12時前だった・・・
ま、いつものことなので何ともないのですけど。


オフィスのミニバスで、いざ出発。
口ぐちに喋るから、毎回’いいとも’みたいにしないと話がわからなくなる。
歌えだの、歌うだの、遠足状態。。。









1時間程行った草原のど真ん中で、バスが急に止まる。

ぷすん。

つぶれたそうだ。
・・・。
マ○ダ産・・・。









スパナがないとダメだ、とか言って車から牛使いまでいろんな道行く人を止めては聞いている。

牛飼いは、スパナ持ってないでしょーが!
でも、優しいからか面白そうだからか、牛飼いも一応話を聞いている。









だいたいスパナがないと困るつぶれ方が、こわい。

そんなことはお構いなしのANM達に、「降りよ!降りよ!」と誘われて、降ろされる。
降りた途端、ダーーーっと草原へ散らばるみんな。









え?何ですか?
突っ立って待ってると、各々草を抱えて帰ってきた。
大量のひよこ豆の草を持って。

「ナーシュタ!ナーシュタ!(朝ごはん!朝ごはん!)」と、ひよこ豆モーニングの時間が勝手に開始された。
軟らかい皮をめくると、まだ青いひよこ豆が。









内職レベルの速さで、親友の一人であるサーヴィットリ(23)が、ずーっと剥いて手のひらにのっけてくれた。
つぶれたバスの中は草だらけ・・・












無心で豆の食べ放題をした後に、口ぐちにポツリポツリと。
「みず・・・」
「うん、水だ。」
「水飲みたいね。」
「チャロ。(行こう)」
またザーッと降りる。

え?と思って私もついて行く。
だってこんなとこ水ないでしょうが!

でもよく見ると、5m先に家があった。










「井戸あるよね?ちょいとしつれーい」と言って、おうちの井戸を拝借。

軒先で、食事中の牛さんと、そのヨコで食事中のおばあちゃんと、その井戸で水浴び中のおじいちゃんとお兄さんの横で、列を作って水待ち。













じいちゃんも兄ちゃんもめちゃめちゃ恰好よくて優しくて、その頃にはバスが潰れていることを私も忘れていた。









「ニホンって・・・どこの村だっけね?」と聞いたじいちゃん。
長くなりそうだったから、
「ん? ・・・クニだよ。遠いとこ。」
とだけ答えた。
「そうか~ よく来たねえ」とにこーっとしてくれた。
タイプです!!


ちょっと目を離すと、誰かが通りすがりの自転車からビスケットを買っている。









「おっちゃん、こうやって売ってるの?」って聞くと、
「いやいや、店に届ける途中なのさ~」と言っていた。
店のみなさんも困るでしょうに。。。

その横で2・3人は、ナツメヤシの実を必死に木からもぎ取っている。

そうこうして1時間程、目的地の病院側から、救急車がやってきた。
もちろん患者は私達。
急きょ、救急車に乗り換えて再出発。












日本の「救急車をタクシー代わりにする患者!」みたいな記事が浮かんで、胸痛し。


そこからさらに奥地のセンターなどを3か所程回る。
やっと辿りついた病院は、どこもとっても頑張っているのが伝わってきて嬉しかった。










道が粗すぎて、乗ってるだけで死にそうだった。
実際となりに座っていたスワティーは天井に頭を打ったし、私は伸ばしていた足が前のシートに激突した。
痛いけど、なぜか大爆笑。

しかもどこも1時間半ぐらい、群病院からさらに奥地。
緊急搬送どころか、みんな生まれてしまいそうな道だ・・・

搬送用に用意されている車というのが存在するが、普通に健診とかお産が始まったって時はみんなどうやって来るの?と聞いたが、やはり水牛車だそうだ。












これも、生まれてしまいそう・・・。
それでも、果てしなく広がる丘や草原や、青空や風には涙が出そうなぐらいの感動をおぼえる。


ポツポツならぶ家や人々の暮らしは、まるで縄文時代の写真のようで、なんとか歴史博物館の展示のようで。
めったに車なんて通らないからか、猛スピードで飛ばしているにも関わらず、家の中からわざわざ出てきては見る、子どもも遊ぶ手を止めては見る、石鹸まみれの水浴び中のおじいちゃんも停止。

窓から見ている私には、それこそ時が止まったように見えた。

日本の有能カメラの手ブレ機能なんて太刀打ちできないぐらいの車のバウンドの中、必死に撮った一枚。









今日もいつも通り線香花火だ。

思いやりがあって、時におせっかいで、人の話も聞いてないけど、優しくって自由なみんな。
壮大な音楽を奏でるように沈む、真っ赤な太陽を後ろに、みんなで一緒に家路についた。


2010-02-19

全然わからない

インドって。

インドには、観光で来たことがないし、
もう観光で来たとしても住んだ後の観光になってしまうから、純粋な観光の目は持てないと思うのだけれど。
ただ、住んでてものすごく思うのが、

「インドって、全然わからない。」

そもそも、インドとは・・・なんて一つの国としては語れない程混在している。
マンハッタンの様な都会と、水牛車で何時間かかけて移動する田舎が。
IHクッキングヒーターと、かまどに牛糞の炊事場が。
平成と江戸が。
人種も言葉も位もぐーーっちゃぐちゃなのに、でもそこに共通している何かがある。
スピリチュアル だとか、神秘 だとか、人間の原点 だとか、もうそんなインドを無理やり表したような言葉は安っぽく思える。
日本も他国に比べて不思議が満載な国ではあるし、もちろん他国もいろいろだ。

でも。
住んでいるから余計にそうなるのか、もう住めば住む程全然わからない。
わかろうとしたり、わかったことがあっても、全く満足感が得られない不思議な感覚がある。


書くのが難しいなら、せめて話してみろ、と誰かに言われたとしてもこの感覚を言葉にするのはとても難しい。
言葉なんかで、なかなか表せないのだ。

唯一代弁してくれそうなのは、インドの古い音楽。
なんて、空気に合った音を奏でるのか、と土地に根付く音楽の力を感じる。


どんなインドの情報を耳にしても、いまいち納得がいかない。

ここに生まれていたら、そんな風に感じることはできなかっただろうけど。
でも、
ここ以外に生まれた人には、一生住んでもわからないんだろうな、とも思う。

普通に暮らしているように見える人でも、不思議がのぞくとビックリする。


なんだろうこの感覚。


2年住んだって、多分素人だ。
私も住む前は信用していた、インドを表す様々な胡散臭い形容詞。
今はどれも納得がいかないけど、一つだけ、「うん、そうだな」と思うことがある。

インドには、やっぱり呼ばれたような気がすること。


一緒に長い時間を過ごしてきたのに、何考えてんのか全然わかんない。
性格も合ってんのかいまいちよくわからない。
どうして好きかも今となれば説明もつかない。
なんなんだ、この人。
でもなぜか、離れたいとは思えない。


恋人や夫婦のように。
お産への思いのように。


大好きです、あなたのことも。
インドさま。

2010-02-08

風のごとく

日本と同じように、医者が病棟をラウンドする(回診)。
たまに時間があると、後ろからひっついて行く。

先日、女医さんが隣の患者に何やら言ってる時、ふとその隣の母子が気になった。
見るからに2000g以下の赤ちゃん。
と、ハタチぐらいのお母さん。
一目みて、どうしよう・・・と思った。

日本だったら、保育器に入って鼻管で栄養を送るような未熟児ちゃん。
だけどここでできるのはひたすら保温と授乳ぐらいのもの。
授乳すらも命取りになりかねないが、なす術がない。
そして、小さな赤ちゃんはお母さんのオッパイを吸う力も弱いので、自分に必要なだけのおちちを自分で飲むことも難しい。

そんなその子も、みるからに脱水状態。
「おちち、飲ませた?」って聞くが、
「やっても全然飲まないの。お腹すいてないのかな・・・」と、母や周りの家族。
理由は私にはわかるけど、さてどうしたものか。
しかし、ここでできるのは上の2つ。
「飲む力もないの。でもね、厳しいけど、飲ませないと死んじゃうよ。とにかく絞って、スプーンで飲ませて。」
戻り、手の空いたANMやナースにしっかりもう一度説明させる。

2日後、気になってまた行った。
「スプーンで飲ませてる?」と聞くと、
「うん!飲ませてるよ。さっきも飲んだよ。」と。
毛布にぐるぐるに巻かれ、お母さんのヨコにいる赤ちゃんをのぞく。

すでに呼吸は止まっていた。

体中、カラカラになって。

小児科に見せるべきだったのか。
私の説明が甘かったのか。
彼女達の危機感が低かったのか。
ナース達は、どうしてラウンドしないんだ。
と、いろいろ頭を巡った末、言葉を何もかけられなかった。

「どうかな?センセイ・・・?」って聞かれた時。
「さっきまで飲んでたの?温かくして、スプーンでまたあげてみて。」と言い、戻ってナースに報告した。

死んでるよ、って言えなかった。
キラキラした目を見ていたら。
センセイでもないのに、生死の判断なんて言えない。
なんて情けない。
悲しみの処理の仕方がわからない。

悶々と考えた後、その後どんな風に彼女がわが子の死を受け止めたのかずっと頭を巡ることになってしまった。
彼女の苦しみに比べたらどうってことないんだろうけど、何しにきたんだろう・・と、帰り道、青い空が目に染みる。

そして、大好きな歌が頭にひびく。

引用
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心躍る 夢をみたい

かなしみは 数え切れないけれど
その向こうで きっとあなたに会える

繰り返すあやまちの そのたび ひとは
ただ青い空の 青さを知る
果てしなく道は続いてみえるけど
この両手は 光を抱ける

さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる

生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街もみんなおなじ

呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう

悲しみの数を いいつくすより
同じくちびるで そっと歌おう
(千と千尋の神隠し より)
引用


「同じくちびるでそっと歌おう」


2010-02-04

井の中の・・・

病院の外、つまり地域の診療所的なところ(医師はいない)を今まで見る機会がなかった。
とりあえず3カ月、ここを知るのに精一杯で、中心の外は一体どうなってるのかずっと気になってた。
そこからANMが研修に来たり、患者が搬送されて来たりするのに、その現状を知らずして何かにアプローチはできない、とずっと思っていた。
今週少しタイミングがあったので、友達のANMをつたって村に出てみることにした。
突然の電話一本で、いきなり病院に迎えにきてくれたり、びっくりするほど優しい私のお友達たち。
そのうちの一人が、今日は彼女のSC(サブセンター)へ連れて行ってくれた。

ここ県庁所在地から1時間少しのところ。
プテラという村。

ダモーなんて、大都会だった!
ずっと田舎だなーと思っていたけど、東京駅ぐらいとはいえ、やっぱり県庁所在地だった!
村はほんとに小さくて素朴なところで、とても落ち着く場所だった。


村の女子小学校へ足を踏み入れる。
寒いからと(私は暑い)、みんな外で勉強。

でも宇宙人みたいな外国人に、みんなソワソワソワソワで、全然授業にならず。













村の子たち、みんな服も汚れているし、はだしだけど、笑顔が本当に可愛かった。
何より、ちゃんと勉強させてもらってるんだね、と思うと心から嬉しかった。












学校のない遠くの村に住む子たち、毎日通うの大変だからと、政府が無料で運営している寄宿舎がある。そこへ、行きのバスでたまたま会ったそこの所長さんに連れていってもらう。























「なまえ何って聞いてよ。。」
「え、やだ。あんた聞いてみなよ。」
「えーー。じゃ、き、き、聞いてみよっかな。。」(はずかしい、下向く)
「な、な、名前なんですか?」
カワイイ・・・



数えるほどしか人が住んでいないんじゃないのか?と思うぐらい、まばらな人。
周りは大草原が遠くまで見渡せる。

マンゴーの大木。
の下に、神様である牛さん。












その牛さんの餌を運ぶ、おばあちゃん。















その牛さんの糞を草原で乾かしている。










その糞を燃料に、火をおこす。









そして起こした火で、学生のゴハンを作る。











肝心の目的、サブセンター。







あまりにも小さい分娩室。












それでもちゃんと手が行き届いているところもあり、そこから彼女達の仕事に対する愛に溢れている場所であることがよくわかった。











「何か困ることある?」「感じていることある?」「こういう時どうするの?」と、いろいろ質問攻めにしてみた。
気持ちはあっても、どうにもならないことや、工夫していることなど語ってくれた。

そして、深く心に残った一言。

私が、「でも15もの村の人、全部見なきゃダメで、24時間待機で、本当に大変ですね。仕事頑張ってやってらっしゃるんですね。」って言ったとき。
35年になるANMの彼女、こう言った。

「そうね、大変かもしれない。でも、本当にこの仕事が好き。大好き。いい仕事よ。」
と。

本当に、心の底から嬉しくて、涙が出そうだった。
「私も大好きです。一緒に改善がんばりましょう、努力してみます。」って、国を超えて助産師同士の気持ちを分かり合えた思いだった。

本当に忙しくて、やりがいもみつけられなくて、長年過ごしてきたんだろう県病院のナース達。
彼女達にも、いつかこの思いを思い出してもらえるために、なんとか2年やってみたい。

どこから聞きつけてるのか、どんどんどんどんセンターに私を見学にやってくる。










写真は、向かいの男子学校の先生達。





夕方の帰りのバスに乗る前に、村から少し離れた、ヒンドゥーの祈祷祭のようなものへ。















こんなところに来たものだから、大大大注目だったが、一緒にこれからの活動をお祈りさせていただいた。


なるほど、周りはこうなってたのか。

穴だらけのパズル。
踏み出してみて、また一つ、埋まった気がする。

2010-02-01

来た理由

両親は2人とも根っからの旅行好き。
当時にしては珍しく、2人は出会う前からそれぞれ海外へ渡航していた。
飛行機にスーツで搭乗していた時代に、ダウンジャケットでネパールへハネムーンに行ったそうだ。
そんな両親の、今日は29回目の結婚記念日。
なので、こんな話を書く。

そんな両親の元に生まれた私は、幸運なことに、幼い頃から国内も国外もいろんなところへ連れていってもらった。
その影響かDNAか知らないが、だから今もインドに来ちゃったりしている。

子ども時代を終えてからも、家族とは別に旅をしてきた。
長く住んだ国もある。
各国に足を運んで、そのたびに思うことが一つある。

以前 「行く理由(7月3日付記事)」にも書いたとおり、もちろん、私のお仕事は助産師なので、そのお仕事関連で今回もインドに住んでいるのだけれど。

それとは別にやはり来ている理由がある。


どこの国に行っても、必ず出会いがある。
たとえそれが旅のように短くあっても、お互い忘れられない友情になることすらある。

「友達がいる国とは、けんかできない」
そのたびに強く感じるこの気持ち。

友達がいない国とはケンカできるという意ではない、もちろん。

思うのは、この気持ちが大切だといつも繰り返し感じること。
国対国、宗教対宗教、民族対民族では平和は生まれない気がする。

平和を生むのは、個人と個人。

どこへ行ってもその国に行く度に思う。
少し違う肌で、ちょっと暑くて遠くて、違う言葉を話しているけど、心は一緒。
優しくて、ちょっと怖がりで、人間らしくて。
個人個人はとても優しく、無垢で明るい人たちが多い。
知らないから怖くて、怖いから攻撃的になるけれど、一人でも愛すべき人がいる町、友達の住む国と闘う気にはとてもなれないと。
その感情が大切なんだと思いながら。
相手を愛すること。知ること。
一人の力はとても小さいけれど、とても強く、個々のつながりは大きな力でさえ及ばない固いものがあると思います。
国と国ではなくて、ひとりひとりがつながっていくことが、お互いを救っていくんだと。


世界中で日本が批判されるようなことがあっても、「でもカナのいる国だから」
そう思ってもらえるように。
世界中でインドが批判されるようなことがあっても、「彼らのいる国だから」
だから、私は戦争しない。


そういう気持ちが生まれれば、誰かが違う国に行ったり関心を持つことに、素敵な意味があるんじゃないか。

ANMのお友達と、バスに乗って遠くの彼女の病院へ行った今日。
彼女と隣り合わせで座って、そんなことを思い返していました。