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晴れな人生、生き方!
それでいて、夢がちりばめられていて、ところどころで出会えるといい。
自己満足だとも思いながら、夢の一つである国際協力に踏み出す。

*用語説明*
ANM・・Auxiliary Nurse Midwife(准看護助産師) 農村部で15・6の村を対象にドクターなしで診療所を運営する。分娩から成人・子どものケアまで。

ナース・・・日本のように看護師と助産師の資格が分かれておらず、それ以上のことも行う。例)会陰切開や、縫合など

2011-07-29

赤ちゃんの死

何百人とりあげたのか、もう数えられなくなったのでわからないんですが。
人口に比例して、2年にも関わらず多くはインドの赤ちゃん。
私が助産師になって7年。
直接手を触れなかった例を含めると、無数の出産にたちあわせてもらってきたと思います。
これからも、多分ずっと。



今日5カ月で早産になった赤ちゃんを手にして、臍の緒を切ったり、胸にあてた人差し指から伝わる心拍を感じながら、周りの音がシャットアウトされたみたいになっていろいろ考えていました。


「IUFD(子宮内胎児死亡)だから」
って、あっさり言われてました。


実際は陣痛がとまらないので、結局産んでもらうしかない選択で、生まれても700gそこそこの赤ちゃんを救う術はないので見守るしかできないことをみんな承知です。
だから、一銭のお金もないお母さんに最初っからそう言ってました。

そのお母さん(といっても19歳)を目にしたときは、すでに頭が見えてましたが、”生きてるな”って思いました。

”この子生きてる”

わかるんですね、ほとんどは。外からみても。

小さすぎる頭を手のひらに感じながら、そこから周りの音がスーッと消えていきました。



もちろん日本でも、なんらかの原因で赤ちゃんが生まれる前に亡くなること、死産になること、生まれた後に亡くなることはありますが。
その確率はここらの国とは比べ物にならないので、稀なケースだったり、本当に現代医療ではどうしようもなことだったりします。

でも、そうそうあたるケースでもないのと、あっても蘇生の余地や治療の余地があるのが日本。

ここではそうはいかないので、一生分の赤ちゃんの死を目にしたように思います。
それぐらいたくさん、ということ。


ぷはー ぷはー って小さく息をし、胸から伝わる心拍は正常で、つくりももちろん人間なんだけど、まだまだ未熟でふにゃふにゃです。


答えはわかっていたけれど、多分自分で決断を出すのが怖かったのだと思う。
というか、自分で下した責任を回避したかったんじゃないかって今思いだすと情けないけど、近くにいたドクターに一応確認しました。

「どうしますか。蘇生しますか」って。

「維持できないのよ。蘇生してどうするの」って。


そうですよね、って思いながら、臍の緒を切る。

日本だったら、NICU(新生児集中治療室)があるな。
でも700gだと厳しいか。
(NICUの光景を思いだして)あんなに電気や器具を使うことができるなんて、恵まれてるな。
ていうか、その前に早産を防ぐな。
そんなこと考えたところで、ここはインドの田舎だった。

って。


家族は、いつも通りぞうきんみたいな布を持ってきてました。
「もう少しきれいな布ない?」って聞く私に、
「この子は別に清潔じゃなくていいんじゃない?(だって死体だよっていう意味)」っていうナース。

清潔概念があることはいいことです。
でも人間なのにね。ってまだ消え入りそうだけど動く心臓をみながら、話しかけてみるけど赤ちゃんは眠ってました。


ここに来た頃は、おお泣きでした。
泣くのはハシタナイっていうインドで、そしてプロ意識としてぐっと我慢するんだけど、救える命が消えるというのは感情コントロールにするとかなり上級で、私にはそんなうまくコントロールできませんでした。
もう手の施しようがない時だって、それがたとえ患者と看護師という立場であっても、人が亡くなるというのは結構くるものです。

救えることを、救える環境があることを知ってる私は逆に不幸なのかもしれないとも思いました。


はじめから亡くなっているとわかってて、その子が生まれる手伝いや
希望が地獄に変わる瞬間や
そういうのをあんまりにも見すぎて、それがときに ”ヒトの死” だって忘れちゃうんだな人間は。
って思います。

だって、自分だって今日涙の一滴どころか感情の波すら来なかった。
それはモノ扱いだからとか、赤ちゃんなんてどうでもいいってことじゃなくって、凍結させるんですね、自分が自分のこころを。
でないと、あまりにも非日常の死にまみれてると精神がおかしくなっちゃってやっていけない。
でもどこか切ないです。


喋らないけど赤ちゃんだって人間。
お腹の中でも外でも、それは ”人の死”。

そんなこと、毎回毎回真剣に感じる暇がないぐらいそういうことばっかりなんです。
いつか自分が妊娠したり、こどもを持つとき、そんなことが起こったら。
死をまともに受けることができるんだろうか、って。



ただ、慣れるということは怖いけど、そんな私も人間。
死の受け止めかたが変化しているだけと思いたい。


ただ、悲しむこと、泣くこと、嘆くことが人間の正しい反応だとされるなら、インド人は異常なのか。


そうじゃないと思います。
なぜそうなのかを考えていける自分でありたい。
その事実を批判するのは簡単だけど、どうしてかまでを考えないと何も変わらないんだと思いながら。


命の価値なんて比べるものではないって思ってた、いやそんなこと思いもしなかったけど、そうでもない。
それは日本人である私の価値観だったんだな。
何が正しくって、何が間違っているっていうのは、結局決められないことのほうが多いっていうのは、他をみればみるほど思うこと。

命の価値がここよりずっと平等な日本に帰ったら、ゆっくり考えたいと思います。

2 件のコメント:

  1. かなのブログを読んで死産の赤ちゃんをみたことを思い出しました。私がもしかなの立場なら、かなりタフにならないとやっていけないかなと思います。あと2か月きったかな?身体に気をつけてね。

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  2. >Aiko
    んーまあそれはAikoが助産師ではないからかもしれないね。人生でお産なんてみることがあまりない中では、鮮烈に残る体験だったかもしれない。
    それでもこの仕事がだーいすき。尊い気持ちにいつもなれて。やめられません。

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