その私が出勤するほんの少し前の出来事。
あるお母さんが搬送されてきていたようです。
知らなくって、あわただしい外来が1時間ぐらい経過した時に、ドクターがふといいました。
「カナ、分娩室行ってごらん。さっき、パタリヤから搬送されてきた重体の産婦がいるから」
「どういう経過で搬送されて、ここに来たかその目で見てきて。」
と。
分娩室の前は、いつもより多い人だかり。
重体・・・。
というか、もうあちらとこちらの間ぐらいでした。
呼吸は今にも止まりそう。
瞳孔は散大。
脈は50を切ってました。
点滴が、2本。
酸素ボンベから直接長いカテーテルを片方の鼻につっこまれている。
心電図モニターも、人工呼吸器も、たくさんの薬の選択肢もないですから。
とりあえずの大学病院までだって、でこぼこの荒れた道を2時間以上走らないとない。
あいにく破裂した子宮をオペする電気もない。
死にゆく命は、見守ることしかできないのです。
その周りで、今出産を終えたばかりの親子や、まさに分娩中の親子や、陣痛が来てやってきた家族などがいつも通り過しており、スタッフもバタバタとしながら、たまにちらっと彼女を見にきていました。
彼女を取り囲む2・3人の付き添いの女性達は、神妙な面持ちでじっとしている。
「何人目?」
と聞くと、「3人目、でも上2人ももういない。」と答えてくれました。
子宮を見たり、所見を見てみて、それからあまりにもお母さんに気をとられて忘れていたので聞きました。
「ところで、赤ちゃんはどこ?」
女性達が、指さしたのは向かいのベッド。
青いサリーを破った布切れに、粗末に裸でくるまれ、そこにいました。
全身は紫色。
しかめっ面の顔で、体はむくみ、苦しかったんだな、と一目みて思いました。
あまりにも無造作だったので、とりあえず手を組ませてあげて包みなおしました。
搬送してきた病院の小さな紙切れには、
”横位(赤ちゃんがお腹で横に寝ているので、経膣分娩はできません)、手が娩出されたため、ダモー県病院へ搬送”
それだけ。
横位であることは、分娩が始まってからわかることではないし、あっちの病院で分娩の経過がどうだったかも、全く書かれていない。
妊婦健診の記録もない。(受けていたかどうかもわからない)
10分程して、向かいに眠る赤ちゃんのように、24・5の彼女もそこで深い眠りにつきました。
日本では極少である妊産婦死亡。
私の短い臨床経験では自分の勤務であたったことはありませんでした。
ここでも新生児の死亡に比べれば少ない方ですが、みんなの反応をみていると、決して珍しいわけではないんだな、ってことが改めてわかりました。
赤ちゃんのすぐ後に、お母さんがベッド向かいに一緒にそこを絶ちました。
冷たく凍った私の心は、以前より平常で、涙も流れてきませんでした。
私にとっては、大勢の死の中の死。
その人の人生と、家族や友人にとっては大きな大きな死。
それが嫌でたまらない臨床から少し離れたかったのに、私の心がまたあの頃に戻りつつあることを感じて、悲しかったです。