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晴れな人生、生き方!
それでいて、夢がちりばめられていて、ところどころで出会えるといい。
自己満足だとも思いながら、夢の一つである国際協力に踏み出す。

*用語説明*
ANM・・Auxiliary Nurse Midwife(准看護助産師) 農村部で15・6の村を対象にドクターなしで診療所を運営する。分娩から成人・子どものケアまで。

ナース・・・日本のように看護師と助産師の資格が分かれておらず、それ以上のことも行う。例)会陰切開や、縫合など

2010-09-27

怒りの矛先

そろそろ書こうと思います。
私が日々何をしているか・・・。
そういえば、まともに一度も書いていませんでした。

私が主に通っている県病院という病院に、村で医師なしで診療所を動かす看護師が21日間ずつ研修にきます。(かれこれ始まって2年)
その看護師達の研修のフォローを主にしながら、同時進行で病院自体の産科の改善に努めているというのが簡単な説明。
日本で言うと、看護実習生についてくる先生みたいな役ですが、彼女達はもう臨床に出始めているのでそういう意味では新人教育みたいなもんです。
そして、その後どうなっているかフォローアップのために村を回ったり(おもに看護の”質”の部分)、遠く離れた看護師同士が情報共有できるようなアプローチをしているところです。



今日は新たな研修が始まって2日目でした。

朝の回診のときから、やたらと心配して声をかけてくる家族が分娩室にいました。

「ねえ、大丈夫かみてほしいんだけど。パタリヤから来たの。先生にここに行けって言われたから。ねえ、大丈夫かな?昨日からずっと痛がってるの、こんなふうに」

どっちにしても、研修生にはみんなの観察をさせているので、一緒に状態観察をしました。

気になったことは高血圧であることと、陣痛が弱いこと、その陣痛が結構長引いていること。
つまりどっちかというとハイリスクに分類されます。
注意が必要ということ。
赤ちゃんの心音は正常でした。
逆子だという理由で搬送されてきたその患者、診察したらちゃんと頭位(頭が下)でした。
なのでその旨家族に全て説明し、様子観察していたのです。

しかし、今日は運の悪いことに外来のスタッフが体調不良でお休み。
先生一人で70人近くもの患者さんを3時間でまわせないので、私がお手伝いに行きました。
それでも研修生も放ってはおけないし、患者さんも気になるのでできるだけ半時間~1時間置きぐらいに分娩室には行ってたのです。
今日の分娩、産科病棟担当の看護師は、ここで言うことではないかもしれないけど、看護師としてどころか人間として間違っているだろうと思わざるを得ないような言動ばかりの人。
もちろん、仕事なんて全くしないし、ずっと詰所で座るばかり。
私の話どころか、誰の話も聞きやしない。
おまけに、6日間のIUD(避妊具の一種)の研修がフィールドの看護師を対象に今日から始まり、その管理もしなきゃいけない(だって、それをしているのは今日休んでいる外来の看護師さん)
なので、そういう意味でも大変でした。

行ったり来たり、行ったり来たり。
それはいいです、日本よりずっとマシだから。

途中の廊下で
「センセーイ!!」と呼ぶ声。
気にかけていた産婦の家族の一人。おそらく赤ちゃんのおじいちゃん。
「ハアハア。先生!どうですか、こどもどうですか?!心配で」

私、いいました。
「逆子って言われてたみたいだけど、頭から来てます。これは確実。だんだん降りてきてるけど、血圧も高いしちょっと心配。ただ、いまのところ心臓はしっかり動いてるよ。それから先生じゃないけどね・・・」

おじいちゃん、笑顔で戻りました。


11時半、研修生と一緒に赤ちゃんの心音を確認したので、そのあともう一度血圧をみないとな、と思っていました。
でも外来に呼ばれ、もうひとつの研修の子達を外来に呼んだりしているうちに12時半近くに。
気になって分娩室へ戻りました。

研修生はいません。
最悪な看護師ももちろんいません。
詰所で談笑しています。
でも、その産婦のお腹はへこんでいる。

「あ、生まれたのか」
そう思ってふと後ろを振り返ると、真っ青な赤ちゃん。

”なんで”
”なんでなんでなんでなんで”

12時に生まれたそう。

”なんで死んでいるの?”ではありません。
理由はある程度、想像がつきました。


なんで死んでいるのかではなく、なんで死ぬような状況になったんだ!ってことです。

まだ来たばっかりで不慣れな研修生にしっかり説明していなかったこと(実際、彼女達は呼ばれて帝王切開についていたそうでお産の直後に分娩室に戻ったとのこと)。
看護師はその場にいなかったこと。
看護助手がお産をとったこと。
そして、赤ちゃんの大きさや生まれた後の時間と比べたその皮膚の色からして、おそらく産後の蘇生でなんとかなったかもしれないという悔しさ。
半時間前は心臓はお腹の中で動いていた。
放っておかれている赤ちゃん。
談笑している看護師。
涙を浮かべるおばあちゃん。
私が分娩室にいれば蘇生できたのに、なんで外来にいたんだ私。
おじいちゃんのあの笑顔。
ここでだって助けることができた、死ぬはずじゃなかった赤ちゃん。

怒りで体は震え、涙をこらえられませんでした。

研修生を外来に呼び、事情を聞きました。
「帝王切開を見に行ってたし、看護師もいなかったらしい。すぐに蘇生をしたけど、生まれたときからあんな感じだったから亡くなってしまった。」
彼女達は責められません。
「わかった。でも約束してね。今度から、必ず看護師か先生、いなければ私でもいいから誰か呼んで人を集めてからお産にしようね」
そう言いながら、ボロボロ泣いている私に
「ごめんなさい。」といった彼女達。


「だから何度も言っているのに。だから分娩室に看護師を1人でもいいから置いてって言っているのに。なんで?彼女の仕事はなんなの?あの赤ちゃんは生きてたのに!!!半時間前まで生きてたのに!」
泣きながら言う私を、女医さんがそっと抱いて言いました。

「カナ。知っているように、人がいないのよ。ごめんね。私のせいでもないし、カナのせいでもないけど、でもごめんね。あなただって24時間蘇生につくわけにいかないんだから、受け入れるしかないのよ」って。

人がいなくっても、最大限試してみること、それすら怠る今日の日勤の看護師にこの怒りを向ければ楽になるんでしょうか。
安月給で、興味のない仕事をしているとしても?


私にせめてできること。
女医さんにお願いして、家族にどうして赤ちゃんが死んだのか説明してもらいました。
だって、なんの説明もおくるみもなく言葉の通り放っておかれるなんて、あんまりだったから。


どうして死なないといけなかったの。
生きたかったよね、赤ちゃん。
半時間はやく分娩室に行けなくって、ごめんなさい。
殺してしまったようなもんじゃない。

去りゆくものは去るとしても、生きれるものだけが生きれる世界だとしても。
それでも目の前で助けられないのは、悲しい。


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医療者の方へ

詳細を少し。
PIH、骨盤位の診断で搬送。
陣痛は2日前からとの主訴。
1経産。
朝の時点では、BP150/90、症状なし、FHR140(トラウベのみ)、子宮口全開、St+1、人破され胎便なし、微弱陣痛。
その時点で、降圧剤(これが日本で何かわからずスミマセン)をim、オキシトシン5uを全開drip。
これで一気に分娩の状態が変わったのかと。
そこは医師の指示だから何もできない・・・。
児は3kg前後で、心拍停止状態だったが、IUFDとは考えにくい所見(実際半時間前にFHR確認している)。
急激な血圧降下と陣痛促進、遷延分娩に加え、おそらく間欠期も行われていた努責促しによる死亡かなと私は思っているのですが、どうでしょうね。
そして適切な蘇生は何もされなかった。
医師は、患者が健診をちゃんと受けていなかったこと、PIHが原因でIUFDだったとの説明をしたけれど・・・・


2010-09-23

最近変わりつつあること、そして嬉しかったこと


1人のナースを含む、固定の3人チームでとてもシステマティックに管理されているオペ室。
(もちろん日本とは比べ物になりませんが、現地にしては上出来)
分娩室もそんな風にしたい!って思って、足しげくオペ室に通い、相手を褒めてたくさん教えてもらいました。(知っていることだけど、知ってるけど・・とは決して言わないのがミソであり我慢)
そしたらオペ室チームと出会うたびに、笑顔で
「カナー、なんかできることがあったら言ってね。」
と言ってくれる最近。
そして、その姿を見ていた産科のドクター達が、
「私達がカナにできる助けはなに?」って言ってくれました。
ああ、その言葉だけで十分嬉しいです。


この人がいなければ・・・もっとスムーズに事は運ぶ。
という、産科の師長。というか、おばさん。
でも、別に悪人なわけじゃない。
ただ、ムズカシイ。
でもずっと負けじと距離を縮めていったおかげで、彼女が私をかばってくれたことがありました。
なんだかわからないけど、心から嬉しかったです。
もっと縮めてみよう。
え?もちろん産科をよくするために・・・です。



同僚の一人がお産。
特別に、キレイなオペ室でお産をさせてあげ、産後ひっきりなしに訪れる同僚達。
私はずっと付き添って、経過を書いてました(専門的にはパルトグラムを・・・)
こういう、職員はちょっとVIP対応な感じと、みんながやってくる感じと、その中に自然に入れてもらえている感じが日本で働いていた頃を思い出して懐かしくって、嬉しかったです。
もちろん、平和なお産で元気な赤ちゃんの誕生はその日1日を幸せにしてくれました。



3人同時にお産になることがあったって、30人ぐらいの褥婦と、10人ぐらいの産婦にあてられた日勤ナースは1人。
たまたま入った分娩室で、一方がお産をしているときに一方から7カ月の子が生まれました。
早産です。
人がいないので、勝手に。
そこに出くわした私。

さて。
必死に蘇生し、保温、吸引、ない酸素ボンベを取りに行かせること数回、病院内を家族を連れまわして、そんなこんなで小児科医に薬処方させて、もう大丈夫かなと思うまで軽く2時間程費やしてしまいました。
翌日、鼻管からの母乳のあげ方を指導し、注意点を伝え、ここでは必ず放っておかれるので無理やりドクターやナースに診させに連れていき、そして必ず5日後外来に来るように伝えて退院させたのが今日です。
(こんな未熟児でも勝手に退院にさせられて・・・!それはさておき。)

ずっとそばにいてウンウンとうなずくだけだった旦那さんが、
「こんなによくしてもらって・・・。うぅ・・・。他の人はみんなこんなにしてくれないよ。本当にありがとうございます」
ってまっすぐ目を見て涙ぐまれました。
あたりまえのことで、それどころか、何もないから何もできないのにこんな言葉をもらって。
照れくさくって、
「たいしたことじゃないですよ。かならず来てね、1週間後に!」と伝えました。
ああ、嬉しかった。
当たり前のことなのに。



県病院で6日間コースのIUD(避妊具)の研修が行われています。
最近ガイドラインが変わったパルトグラム(お産の経過を見る用紙)。
ずっと以前にお産の研修を受けているその看護師達はそのことを知らずに今も古いままのやり方でやっています。
だから、この研修の間に、避妊具と全然関係ないけど、伝えませんか?と言ってみた。
だって、私達がフィールドの病院を1件1件回るのはとても大変だから。
「いいアイディアだわ。一緒にやろう!」
と言ってくれた女医さん。
2日後ぐらいに彼女の講義の時間をもらうことになりました。
良かった、ずっとやりたかったんです。


後は仕事と関係ないけれど。
研修中のANMの子が、
”カナと、この時を忘れないために”
と言って、こどもにタロウと名付けてくれたこと!
何十もの名前を提案したのですが、なぜかTAROが人気でした。

もう一人、妊娠7カ月で研修中だった子が、
”カナにとりあげてもらうために11月来るよここに”
と言ってくれたこと。
その言葉は、助産師にとって一番嬉しい言葉です。



嫌なこと、悲しいこと、辛いこと、不満と愚痴の方が多い気がするけれど、
嬉しいこともこんなにある。

だからやめられないんですね、生きることって。
だから素敵なんですね。











TAROと、TAROのおかあさん。

2010-09-20

五感の記憶・・・触覚

暇なわけではないけれど、そういう気分なので毎日更新。
試験前ほど、部屋の掃除的な。


実は冬が大好きな私。
特に日本の冬は大好きです。
ロシアとか、高地レベルの冬はちょっと・・・

今まで出会った人の大半は ”夏が好き” と言っていました。
開放的でわくわくするからだそうです。

ああ、夏も好きですけどね、でも冬が大好きです。



空気の澄み渡り加減。
鼻だけ冷たくなる感じ。
朝夕のすーんとする空気に加え、昼の太陽の鮮やかさ!
暑い夏にいきなりクーラーのところへ入るのはあまり好きじゃないけれど、寒いときにあたたかい場所へ入るあのなんとも言えない安堵感。
秋冬服の方がおしゃれだし、年末の心躍る感じがやめられない。

どうせ帰るなら冬に帰ればよかったか?

と、少し思いました。



今日は連日の大雨のせいか、とても寒く、風が吹いて、半袖では震えるほど。
3月から続く夏に、そろそろ飽きてきています。
寒くなるのはおそらく12月に入ってから。

2カ月強ぐらいしかない冬が待ち遠しくなった、そんなお天気でした。

2010-09-19

違いの難しさ

情報を選択できて、自由に利用できる私達には、それが無い人よりずっといろんなことを知っているのかも。

それでも、”インド人はカレーしか食べないんでしょ?” というヒトもいるからなんともいえないけど。

おなじく、”ターメリックも、コリアンダーも、クミンも使わないなんて、一体日本人は何食べてるの?”っていうヒトが大半なので、なんともいえないけれど。




実体験したって、わからないこともあるもの。



違う、でも受け入れる。

この難しさは、体験したって難しいもの。

どこの国でも難しいもの。



「インド人は嘘をつく。」


日本人だって、嘘はつきます。
方便の時もあるから。


でも、日本人的倫理観に反する範囲を容易に超えた嘘もつく。
小さいことから大きなことまで。
可愛いことから許せないことまで。

どんなにいい人でも、どんなに近しい人でも。

”知らないのに、知っているという”
”知らないふりをして、知っている”
”やったのに、やってないという”
”やるといって、やらない”


そのたびにやるせなくなるけど、
嘘をつかずとも平和にいられるのは、実は日本だからかもしれない。
嘘をついたらダメだという倫理観とその基準値は、自分達の文化なのかも。
あんまり嘘をつかなくてもいいのは、日本が平和だからかな。


大勢の国で、立ち向かう術なのかも。



いつもインドのいいことばかり書いているので、たまには嫌なことも・・・

まわる地球で

夜、チャット(パソコンの画面で、文字と文字のやりとりで会話をする機能。同時進行なのでメールより早い)の画面を開くと、同じく地球の裏側、中米で助産師として働くお友達がオンラインでいました。

1年ぶりにパソコン上で再会です。

お互い相手が文字を打っているのも待てず自分も打ち始めてしまうぐらい、思いや近況、愚痴や喜び、悩みや思い出を2時間にも渡り話しこんでしまいました。

”なにしに来たのかって思う日もある”
”なかなか伝わらない”
”帰ったらどうするか”


去年の夏、同じ不安と希望を抱いて長野でともに過した、そのなかでもひときわつながりの強かった助産師仲間のうちの一人。
何も変わっていないようで、そんな中でもいろんなことをお互い吸収しているみたいで本当に嬉しかった。


自分一人、たった2年。
雄大なる地球の、インドの一部の町で、”ただ住んでチャイを飲んでるだけなんじゃないか?”と思う日も含め、存在すること。
目にみえる結果は少なく、そこに残る言葉や思いを伝えてくれることだけを信じて過す日々。
それでも、毎年何千人もの人がそうやって出ていくだけで、少しずつ世界は変わるんじゃないかって、あの長野で出会った訓練生達のことを懐かしく思いました。



いつも主張したいと思っていることがあります。

行動にできなくてもいい、たまにでもいい、真似しなくてもいい。

でも、

”関心をもつこと”

いろんなことに。

新聞を読むだけでもいい。
批判や賛同、怒りや悲しみ、軽蔑や賞賛、なんでもいい。
自分にできることが、自分の毎日を精一杯生きるだったり、自分の家族を思うことだけでもいいと思う。
その中で、できることが必ずあるはずだから。

だから、何かに関心は持ち続けてほしいと思います。

無関心よりずっといい。



いつのまにか、朝だったホンジュラスは昼になり、夜だったインドは夜中になり。
日本だったら朝まで話をしていただろうと思いながら、”あ、向こうはまだ夜じゃないか”と思ったり。
夢中になった現代風おしゃべりを終え、インドの私は眠りにつく直前です。

私が過した朝を彼女はこれから過すのかって思うと

「地球はこうやって廻るのか」

と、思い。



どんな時代もあがり続ける太陽を、お手伝いしているような私達のしごと。
自分の生きる時代の太陽だけはせめて無事に。

ヒトから生まれるヒトという小さな宇宙に感動するよね、と会話の中で共感できたような気がします。

2010-09-11

帰国して、帰国

まだ夜中ともいう早朝、裸電球の薄暗い駅に降りたった途端、離れていたのが嘘のように思えました。

待合室で休憩したあと、Blue momentの朝の時間を風を切って走るサイキルリキシャ。
頭の上の屋根は開けてもらい、風を感じながら帰宅しました。
火曜日のこと。

各お寺からの心洗われるマントラが静かに流れているなか、道で歯を磨いたり、こどもが用を足していたり、牛が歩いていたり。

あんなにクリーンで、ラグジュアリーで、スムーズで、コンファタブルな国にいたから、
”ちょっと帰るのよそうかな”
って思う気持ちも少しありましたが、つめたい朝の時間を通り抜けながら、心の中の「にやっ」とする感じとともにすぐに自分自身がそこに収まってしまいました。
「いい夢みたな」、ぐらいの。


そう、そんな快適な国はこの世で一つ。母国です。
休息目的でほぼ実家にこもっていたため、お知らせせず今回会えなかったみなさん、ごめんなさい。
来年、ぜひ会ってください。


どこからやってきたのか、増えた可愛い親戚。
同じように小さい時、同じおじいちゃんとおばあちゃんに囲まれていた大事な従姉妹の産んだ娘。
おじいちゃんやおばあちゃんがいなくなっても、こうやってずっと家族は増えていくんだなあと感動。



25kmも自転車こいで会いにきてくれたおじさん。
上の娘のおじいちゃん。
インド人でも25kmも漕いでる人みたことないです。
でも嬉しかった。


きっと、私に言葉でいう何倍も心配ばかりしているだろう両親。
帰省しても心配ばかりかけっぱなしでしたが、いつも幸せです。



「カナ~!おかえり!」って、たくさんの人が迎えてくれるインドへ再上陸。

いえ、無事に ”帰国” しました。