しわくちゃの笑顔で、いっつも頭をナデナデしてくれたダディは、数人のお年寄り達に囲まれて、床に座ってました。
私をみるなり、言葉はなく抱きついて。
「ダダがダダが・・・:」って。
「知ってるよ。知ってるよ。逝っちゃったね」って言うのが精一杯で、折れそうに小さな体をギュっとしてあげることしかできませんでした。
体を離すと、ビックリするぐらい目が虚ろで、
「カナが来るとね、いっつもね、座れって言ってね、話してね・・・」
って周りの人に言いながら、どこを見ているのかわかりませんでした。
年齢と深い悲しみを考えると、このままダディはおかしくなってしまうんじゃないかと心配です。
人一倍笑顔の溢れる、おしゃべりのとまらないダダのお嫁さんも。
ただ抱きしめてあげることしかできなかったけど、私の肩の上で顎を震わせて泣いていました。
寿命だとはいえ、突然の死の悲しみを処理する暇もないぐらい訪問者の相手にも疲れているのか真っ黒な目の周りに胸が痛くなりました。
ほぼいいなづけで結婚したダダ・ダディの時代。
きっといろんなことがあったんだろうけど、目覚めてから寝るまで、何をするのも何処に行くのもずーーーっと長い間いつも一緒だった相手が、突然目の前からいなくなるっていうのは図り知れない悲しみなんだろうと思います。
私ですら。
また明日の朝はいつも通りリキシャに乗る私に手を振ってくれそうな気がするぐらいです。
すでにガンガーの支流に清められ、荼毘に付され、そして流れて次の世に行ったダダ。
ヒンドゥー教には輪廻転生の想があり、お墓はなく、川へ流れていくのです。
人生や肉体とは儚いものですが、記憶や思い出、そして個人に残る感情はやはりその人が生きた証であり、その人と自分が出会った証拠なんですね。
誰かが死んでも、自分はまた食べて寝てを繰り返し、そして死ぬまで生きていく。
その意味や世界の意味を考えても、それは人間の脳みそぐらいでは対処できないように作られていて、だからせめて納得したりそれ以上苦しくないように、その対象や方法は違っても、そこに神様のような存在があるんでしょうね。
そこらじゅうに生と死が溢れているので、そういうことをたまに考えます。
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