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晴れな人生、生き方!
それでいて、夢がちりばめられていて、ところどころで出会えるといい。
自己満足だとも思いながら、夢の一つである国際協力に踏み出す。

*用語説明*
ANM・・Auxiliary Nurse Midwife(准看護助産師) 農村部で15・6の村を対象にドクターなしで診療所を運営する。分娩から成人・子どものケアまで。

ナース・・・日本のように看護師と助産師の資格が分かれておらず、それ以上のことも行う。例)会陰切開や、縫合など

2010-05-07

県病院の次の規模にあたる、小規模な病院へ今日はまた足を運んだ。
ナースは4人、病床は20床程だ。
県内に7つあるそれらは、だいたいここから2時間程のところ。
その一つへ。

3人目の子をお腹に抱えたお母さんがやってきた。
子宮口は3cm。
お腹のすいた午後2時半。
陣痛がきたらすぐに電話してもらうようナースに伝えて、そとへ食事に出た。
ちょうど昼食をとり終わり、さあ右手を洗おうってときに、携帯が鳴り、まだカレーがついてるんじゃないかって思いながら超特急で戻る。
地下の売店に行ったと思ったとたん、PHSで病棟から呼び戻されたあの昼休みの時間を思いだして、少し懐かしかった。

暑いこの時期。
フル回転させて風を起こす天井のファンを産まれてくる赤ちゃんのために止め、一つ一つの言葉を紡ぐようにキレイに話し、動線がきれいで、素早いがぬかりなく丁寧。
決して焦らず、出てきたいように出てくる赤ちゃんと対話をしながら、そっと手を添えるようにお産をとった。
この世界は頭のキレ味とセンスのいる、まさにアートの世界だと思うが、彼女は立派なアーティストだった。












なんて、ひどいお産なんだと、悔し涙に悲し涙。
そんなお産をずっとみてきたここインド。
勉強したことを素直に受け止め、仲間と手を取り合い、お母さんと赤ちゃんのためを思った助産をしている姿を初めてみて、嬉しいという言葉では足りないぐらいの感動を覚えて、言葉が出てこなかった。
きっと普段は誰もそれを見てはくれていないはず。
それでも一生懸命、使命感や好きという気持ちや、なんらかの思いでやってきたんだろうな。
精一杯のヒンディー語で、精一杯の感動を伝えたつもりだ。
彼女のさらなる前進の動機づけとなってくれれば嬉しいし、もっともっと関わりたいって、私、一助産師としてそう思った。

素敵なお産をみせてもらった帰り道。
真っ黒で逝ったあの子や、目を閉じることもできずに逝ったあの子や、むくみきった体で横たわったあの子達が、あたまの中に一気によみがえってきて、今日生まれたその子の命の尊さを思い、なんだかボロボロ泣けてしまった。
走らせる車の外は、ずーーーっとずーーーっと遠くまで続く地平線に向かって、砂埃が舞っている。
やってきては、去っていく。
去っていっては、やってくる。
時や風のように。

インドで初めての、突風が吹いている今晩。
電気はさっきからチカチカチカチカしている。
停電かな。
今日のあの子の命もこんな風に力強かったな。














窓がガタガタ言ってます。
”また、やってくる”

インドの助産師さんと一緒に、やっぱり頑張ってみよう。
夢膨らむこれからに、来てよかったと一番強く思えた日でした。

2010-04-29

初めてでした

今日も外来にいた私。
その私が出勤するほんの少し前の出来事。
あるお母さんが搬送されてきていたようです。
知らなくって、あわただしい外来が1時間ぐらい経過した時に、ドクターがふといいました。

「カナ、分娩室行ってごらん。さっき、パタリヤから搬送されてきた重体の産婦がいるから」
「どういう経過で搬送されて、ここに来たかその目で見てきて。」
と。

分娩室の前は、いつもより多い人だかり。

重体・・・。
というか、もうあちらとこちらの間ぐらいでした。

呼吸は今にも止まりそう。
瞳孔は散大。
脈は50を切ってました。
点滴が、2本。
酸素ボンベから直接長いカテーテルを片方の鼻につっこまれている。

心電図モニターも、人工呼吸器も、たくさんの薬の選択肢もないですから。
とりあえずの大学病院までだって、でこぼこの荒れた道を2時間以上走らないとない。
あいにく破裂した子宮をオペする電気もない。
死にゆく命は、見守ることしかできないのです。

その周りで、今出産を終えたばかりの親子や、まさに分娩中の親子や、陣痛が来てやってきた家族などがいつも通り過しており、スタッフもバタバタとしながら、たまにちらっと彼女を見にきていました。

彼女を取り囲む2・3人の付き添いの女性達は、神妙な面持ちでじっとしている。
「何人目?」
と聞くと、「3人目、でも上2人ももういない。」と答えてくれました。
子宮を見たり、所見を見てみて、それからあまりにもお母さんに気をとられて忘れていたので聞きました。
「ところで、赤ちゃんはどこ?」
女性達が、指さしたのは向かいのベッド。

青いサリーを破った布切れに、粗末に裸でくるまれ、そこにいました。
全身は紫色。
しかめっ面の顔で、体はむくみ、苦しかったんだな、と一目みて思いました。
あまりにも無造作だったので、とりあえず手を組ませてあげて包みなおしました。


搬送してきた病院の小さな紙切れには、

”横位(赤ちゃんがお腹で横に寝ているので、経膣分娩はできません)、手が娩出されたため、ダモー県病院へ搬送”

それだけ。

横位であることは、分娩が始まってからわかることではないし、あっちの病院で分娩の経過がどうだったかも、全く書かれていない。
妊婦健診の記録もない。(受けていたかどうかもわからない)


10分程して、向かいに眠る赤ちゃんのように、24・5の彼女もそこで深い眠りにつきました。


日本では極少である妊産婦死亡。
私の短い臨床経験では自分の勤務であたったことはありませんでした。
ここでも新生児の死亡に比べれば少ない方ですが、みんなの反応をみていると、決して珍しいわけではないんだな、ってことが改めてわかりました。


赤ちゃんのすぐ後に、お母さんがベッド向かいに一緒にそこを絶ちました。
冷たく凍った私の心は、以前より平常で、涙も流れてきませんでした。

私にとっては、大勢の死の中の死。
その人の人生と、家族や友人にとっては大きな大きな死。

それが嫌でたまらない臨床から少し離れたかったのに、私の心がまたあの頃に戻りつつあることを感じて、悲しかったです。

2010-04-20

ア・ツ・イ

バザール(中心地)を除いて、2部制に分かれているお店は、お昼はバンド(閉店)。
最初のミネラルウォーターにありつけるのは、少なくとも200mぐらいは歩かないとダメだし、昼間は46度ぐらいなので歩くはずもなく。いや、店もやってない。
病院の帰りに、ひとときのミネラルウォーターをがぶ飲みしたら、あとはもっぱら、井戸を汲んで、フィルターに通して、(沸かして、冷まして、)冷蔵庫に入れて、やっと冷え冷えの水にありつける。
その冷蔵庫も、電気がないと切れるので、氷が何度流れたことか。
先の先を見越して作業をするので、常に24時間後の水を考えて・・・。

生活用水は、井戸の水を電気で一旦屋上のタンクに貯めると、それが各蛇口を通して出てくる。
この時期は、洗濯も、洗い物も、トイレも水も、蛇口から熱湯・・・。
だって屋上が炎天下だから。
冬と反対ならいいのに。

キッチンの窓からは、熱風が吹きさらし、立って調理してるとコンロの火と両方でおかしくなりそう。
食べるのやめたい・・・。

クーラーという名の水が飛んでくる扇風機と、天井のファンを使うが、生ぬるい。
しかもこのクーラー、轟音。
これで寝れるの?インド人!?
うるさくて、眠れないですよ。


コンビニで、雑誌立ち読み、涼みたい。
コンビニの、アイスとプリン、買いだめたい。
流れるプールで流れたい。
冷えた麦茶においしいごはん。
冷え冷えの素麺に、錦糸卵。
ああ、マサラのない優しい味。(インド的には味がないとも言う。)
冷ややっこ。
お風呂の後のクーラー。
デパートやスーパーの冷え冷え感。

毎日妄想。

そうめん食べたい・・・と思いながら、でもそのそうめんを入れる水と氷の苦労を考えると、そうめんないのにもういいやと思ってしまう。
日本はマックスでも38度だったなーいいなーと思って、帰りたくなる。
暑さのせいで、ホームシックですよ!まったく。
なんて贅沢な国なんだ!

「これだから発展途上国は!」とか。
「やる気がないんだから」とか。
いろいろ聞くけれど。

気候って、大切だと思います。
頑張りたくたって、頑張れないですよ。

日本は、元来頑張り屋さんだったのかもしれないけど、四季があって、自然が豊富で、海も物も山の物も食べることができて、そんな自然が味方だったから発展することができたんじゃないでしょうか。


こんなに暑いのに、たった20円で10分ぐらい一生懸命自転車こいでくれるリキシャーの人とか見ていると。
てきぱきてきぱき動くドクターみてると。
頑張ってないなんて、とてもじゃないけど言えません。

休みながら、ゆっくり改善していきましょう。
仕事の話を書こうと思ったのに、暑すぎて、優先順位が変わりました。

生きるって、大変。
日本のみなさん、贅沢な暮らしに感謝して、みなさんも夏を乗り切ってください!
あ、まだ春か・・・

2010-04-17

アーユールベーティック・・・?


初のあまりの暑さのせいか、奢ってくれたからって調子に乗って食べたいろんなもののせいか、よくわかりませんが突如発熱。
1週間にわたる下痢の後、40度の熱が出ました。
最初は、「まーた暑いな今夜も。」と思ったのですが、どうやら気温じゃなくてこれは体温では!と、おたんこナースっぷりの鈍感さ。
その鈍感も暑さのせいだと思いますが(?)
ただえさえ、ストーブの火が燃えて出るメラメラのような風が吹いているのに、自分の体からもメラメラ吹き出して、倒れそうでした。

現地プロジェクトスタッフと、たまたま出張で来ていたボパールの日本人スタッフが、早朝から、知りあいのドクターの家へ車を回してくれたり、知りあいのナースを家に呼んで点滴と採血をしてくれた。
ああ、こういうとき、医療隊員でよかった・・・。
だって、町の医療従事者いっぱい顔見知り。
ついでに、私と一緒にイカれてしまい、こんなときに誰とも連絡もとれなくなった携帯電話。
携帯屋さんが、これも家まで出張販売。
こういうなんでもできるところ、途上国のいいところ。
好きです。
(ま、こうやってなんでもすぐハプニングになるから、逆になんでもできるんだけれども!)

さて。
それはまあ、叱られました。
インド人に。

は?なんでブドウとか食べてるの?だめだめ、オレンジ食べなさい!!
え?風邪のときに卵とごはん?!(私がおかゆの説明をした・・)
だめだめ!ゴハンとヨーグルトと砂糖を混ぜて食べなさい!(気持ち悪い・・・)
鉄分下がってるよ!トマト、ほうれんそう、にんじん、ひよこ豆食べなさい!
水は一日3-4リットル飲むように!
玉ねぎ食べなさい、体が冷えるから。
玉ねぎすったら、手足に塗りなさい!
ターメリック入れた?
油物は禁止ですよ!(え、インドはほとんど油では・・・)
昼間は出ちゃダメ。家で寝ること!
これとあれとこれとあれと・・・・・・
永遠に香辛料の話などが続くのでした。。。

旬のものとか、見た目や重さや色や音で食べごろを判断したりとか、そんなこと私にはできない。
いっつもスーパーで365日ほぼなんでも手に入って、形も綺麗な野菜や果物ばっかりだった。
日本も先祖はいろんな知恵で生きていたのに、あと何十年かしたら誰もわかんなくなってしまうんだろうなと思うと残念です。


キチュリーと言われるインドのおかゆを裏の家の人や、同僚のナースが届けてくれた。。。









3日ぐらいで一気に抜け殻になりましたが、みなさんのおかげと、最初は嫌だと言っていたけど意外に絶品なキチュリーのおかげですっかり回復いたしました。

”郷に入れば郷に従え”

現地のことは現地の人が一番よく知っています。
ちっちゃい時から、バナナ、おかゆ、雑炊とか食べてたのー!だから食べたいの!と言ったけど、「ここはインドだ!」と一喝・・・。
言われた通りにしないと、インドの風邪は治せないのかも。

どちらにしても、優しさでほぼ治してもらったような風邪でした。
幸せです。

2010-04-08

頭痛い・・・

どの外国に行っても、日本人なら経験している方が多いんじゃないでしょうか。
途上国なんか特に。
今日も聞かれました。

「ところで、宗教は何?」

「宗教は・・・」
何というか・・・ないというか・・・なんというか・・・
(はぁ・・・)

もちろん来る前から予想はしていましたが、非常に頭抱える質問です。
面倒と言っては、何か悪いことを言ってる気がしますが、
どうも上手く説明できそうもないときは、相手が押してくる「仏教だろ?仏教だろ?」に、あいまいに「うーん、そうですね」とだけ答えておきます。
でも、実際にはそう答えていることにも何か罪悪感。
だって、仏教徒にも仏陀にもなんか悪い。

来る前に、そういう時は「家や自分は仏教だけどね。自分の時代は・・・」とか答えるといいかも。
って言われたことがありました。
でも、インドでは宗教が違うだけで結婚なんて絶対しないぐらいに家の宗教が受け継がれるんです。
なのに「家は・・・」なんて言ったって、それはイコール私も仏教ですって意味になります。

ちゃんと会話をする時間があったり、相手と長い付き合いになるときは、ちゃんと説明しようと努力してみるのですが。
やっぱり、上手く伝わらないんですね、当たり前ですけど。
言葉の問題じゃないのは、おわかりですよね。
日本における宗教心の問題です。

神様はいると思います。
それに、神様を信じる気持ちも否定しません。むしろ肯定します。
神社にだっていくし、お寺にも行く。
でも自分に特定の宗教心があるわけではなく、先祖は仏教徒だったけど、だからって自分が仏教徒かと言われれば違うし、仏陀にお祈りしたりしない。
だからって、誰でも神様とか言うのでもなく、教会で十字架はきれない。
あー・・・どうして日本だけこんな変なことになったんだ!と頭痛くなるわけです。


「それは間違ってるわ」
と、今日は言われました。

たいていは、仏教徒だと言うと納得してくれ、そうでないと、ふーーんと言いながら変な顔をします。
日本にだって、昔は家にちゃんと仏壇があったし、今だって神道と仏教が混ざったままいろんな行事が執り行われています。

でも、個人の心の中の神様は一体誰ですか。
そして、個人の心に必ず絶対的な神様がいて、科学的なことを抜きにして疑いなく信じられる方がいますか。
もちろんそうである方もたくさんいますが、大部分は私のような日本人かと思います。

「神様はいないって考えてるってこと?!」
「いえ、そういうわけじゃないよ。神様はいると思う。」
「じゃ、誰?」
「・・・」

で、上のように間違ってる、という意見をいただくのですね。


この問題。嘘つくのも嫌で、いまだにとても苦手です。

世界に散らばるみなさん。
ところでどうやって対応してますか?

2010-04-04

"ありがとう” は言わないで


彼女には、何でも話せる。

まだここに赴任して1週間の頃、隣県に住むVarsha(ヴァルシャ)に出会った。
プロジェクトの一環で、ICM(国際助産師連盟)の会議に出させてもらったとき、一緒にハイデラバードに行ったうちの1人。
2つ年下の、同じくナース。












それ以来ずっと会いたいと思っていたけど、何せ隣県とは言えバスで5時間ぐらいのところなので日帰りはできず、なかなか行けないでいた。
それで今回。
3連休があったので、私はVarshaに会いにいくことにした。


インドの人は、たいてい「ありがとう」は口にしない。
たとえば、何かあげたとしても「どうも」ぐらいだったり。
たとえば、ごはんをごちそうしたり家に泊めたりという比較的大きなことでも、ドアを開けてあげるとか送ってもらうとか小さなことでも。
(もちろん、”お医者様”が根付いてるので、病院ではよく「どうもありがとうございます」という最敬の挨拶を聞くのだけれど。)

感謝の心、喜ぶ心を学んだ日本から来ると、どうも最初はしっくりこなかった。

なんで?普通ありがとうぐらい言うでしょ?!と、腹立たしく思ったり。
もしかして、嬉しくないのかな・・・と、残念に思ったり。

でもだんだんわかってきた。

単に自分が嬉しい気持ちになったり、あああげて良かった感謝してもらった、って思いたいのか。
ありがとうを求めるこの心が、実は見返りを求めている結果なのかもしれない、と。


男の人が井戸を一人で引きながら、その水を飲んでるところへ無言で男が井戸を引く役目をしだしたり。
飲んでた男の人も無言で飲み続ける。
終わると、無言で交代する。

バスに乗ってきた見知らぬ子どもを自分の膝にいきなり座らせたり。
子どもも、何食わぬ顔で座る。
その母も何食わぬ顔で、もう一人の子どもを膝に乗せて横に座る。

そんなもんじゃない。
もう、こっちがどうしてかどうしても聞きたくなるぐらいに優しいことがたくさんある。


おもてなしの心を誇るニッポン。
もちろん、日本も来客を粗末に扱ったりはしないし、精一杯もてなす心を持ってると思う。
でもインドは、そんなの当たり前の極地なのかもしれない。
ありがとうがなくっても、当たり前のようにそれをどこかで誰かに返してる。
ずーっとそんなサイクルなんじゃないか、って思った。


4人兄弟の長女。
ナースという仕事が大好きで、こっちが、「もうちょっと自分のことだけ考えて」と思うぐらい、いつも人のことばかり気にかけている優しいVarsha。

ずーっと語り合った後の、別れの今日。
「Varsha、本当にありがとう!!」というと、
「ありがとうなんて言わないで!友達でしょ。当たり前だよ。大好きな人に、楽しんでほしくてやってるだけ。感謝なんていいのよ。こちらこそ、来てくれて嬉しかった!」と。


いろんなことに気を使ってくれたVarshaとその家族。
日本人も顔負けのおもてなしだった。
それなのに、他人に気をつかわせない技は、インド人にしかできないと思った。

理由は多分、そこに見返りを求める心が全くないから。




















彼女の住む町の隣。
世界遺産の、カジュラホにて。

2010-03-25

1の問題、100の背景

毎日、あっちいインドからです。
暑くて眠れないから、天井のファンを回しながら寝ると、次はノドが乾きすぎて眠れない。
寝不足でボーっとしますが、まだまだ夏は始まってないそうです(!)

デリーから帰ってきた我が家は、虫さんとかネズミさんとかが好き放題遊んでくれてまして、掃除から始まりました。
ネズミがでない(嬉!)、て思ってると、虫が増える(ネズミさんが食べてくれていたから)
虫が増えるので、ベープみたいなのとか、蚊取り線香で退治する。
そうすると、静かにお亡くなりになっている物体を狙って、蟻がワサワサやってくる。
それでもお亡くなりにならない虫を狙って、ヤモリちゃん達がやってくる。
勘弁してほしい・・・
散々考えた結果、一番害の少ないヤモリちゃんと私は同棲することにしました。
他に申し込んでくれていた方々、すみません。

でもこれが自然ってことなんですね。
ピッカピカの都会に住んでた私はこんな自然のサイクルに無知でした。
ハエすらも出ない、大阪も東京も、本当に不自然なことなんだって実感しています。
ていうか、もう慣れてきた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私が来てから、まともに外来が進んでいるのを見たことがほとんどありません。
だいたい80%ぐらいは成り立たない。
まず、医師がいない。いるけど、足りません。
3人しかいない産婦人科で、婦人科も産科もオペをして、緊急帝王切開もして、回診もして、外来も診ています。
手が空いた人が手が空いたところに行くという感じの回し方。
プライベートなことでも、すぐに休暇はとってしまうし
早退だって、遅刻だってバラッバラです。
今日は、出勤してくるのか、してこないのか、いつもわからない。
こう書くととっても不真面目に見えるかもしれませんが、私が見る限り3人の先生ともとっても頑張っているとは思います。
突然5日休む、とかはあります。確かに・・・
でもこうでもしないと休めないのもよくわかります。
あまりにも業務量が多すぎるうえ、24時間いつだって呼ばれれば病院に行ってます。

そう、そんな中での外来だから、ぜんっぜん進みません。
朝行って、まずそこに人がいればOKです。
たとえ居て、外来が始まったとしてもオペの時間になればたとえまだ患者がいても、ハイ終了ーです。
だいたいは誰もいません。ナースも足りないので、いません。
患者は廊下に溢れてます。

「先生は?」
「今日は誰先生?」
「先生いつくるの?」
「どこ行った?戻ってくる?」
「何時になったら来る?」

「・・・・」
心の声は、”知らなーーーーい!!知らないよ!私が聞きたいよ!”と思うのですが。
患者さん達が不憫すぎて、
「ごめんね、私にはわからない」と答えます。
インド人は
「知らないって言ってんでしょ!私にどうしろって言うの!来ないもんは来ないの!帰れ!」
って言うけど・・・
(ま、これはインドの日常です。一応フォロー)

「多分来ます」と言うと、
「いついついつ?誰がくる?」っていう攻撃に合うし、
だって、私一人じゃ外来できませんし。
で、結局
「今日は先生来ませんでしたー。足りませんでしたー。」
ではまた次回、ってことになる。

こういう国で育ったうえ、いつも我慢を強いられてきたであろうロウカーストの方達が患者さんだから、3時間待った後でもブツブツ言う程度で帰っていきます。

ついでに、実習に来ている看護学生はその3時間ずっとそこに座っているだけだし、
初めて見る外人に質問攻めだし。
私はいいんですけど、私はもっと考えたい、って思ってなんともやりきれなくなるわけです。

どうしようもないな、と思いそのたびに心が痛みます。

今日は、さすがに患者さんがブチ切れました。

私もANMのクラスがないので、久々に外来に座ったわけですが、先生もナースも来ませんでした。
名前だけで、いつも外来の助手代わりにされちゃう家族計画カウンセリング担当の人と
「まったくねー、困りましたよねー」ってずっと世間話しながら待ったわけですが、先生は2人休みで、おひとりオペでした。
って、できるわけないじゃないですか!待ってたのに!

そしたら、赤ちゃんを予防接種に、そして嫁を産後の健診に診せにきた姑さんが、ブチ切れたんですね。
しかも私に。

「なんなんだ!!朝からずっと待ってるのに!先生が来ないって、ここは病院じゃないのか?!だから政府の病院ってヤツは!この子だってずっと泣いてるんだよ!どうしてくれるの?リキシャーだって、20ルピー払って、また帰りも払って帰るんだよ!次いつ来れると思ってるんだよ!・・・(省略)」

こういうときは、言い訳や理屈が通らないのは一番よく知ってます。
日本でも一緒です。(ね、4北のみなさん)
だから
「そっかー、そうですよね、私ももう本当に困るなって思ってるんですよ。朝からずっと待って大変ですよね。うんうんうんうん。・・・・・・うんうんうんうんうん。」
と、続けました。
本当にそう思った気持ちもありましたので。

全く、この外人に言っても仕方ないか、と思ったのか、気持ちが落ち着いたのか、お母様だんだん穏やかになってきて、最後は赤ちゃん抱かせてもらってなんだか私の話をして、彼女達はどこかへ帰っていきました。

めでたしめでたし・・・
でも、なんでもなく!
悲しみのきゅーんとする音と、情けない気持ちでいっぱいでした。


ただ、助けたいだけなのに。
ただ、死んでほしくないだけなのに。
ただ、診たいだけなのに。
貧乏でも命は一緒なのに。


でも、何かが決定的に悪いということだけでは解決できない、いろんな問題があるんです。
政治、教育も、気候も、文化も、経済も、宗教も、いろんなことでバランスをとれないと、なかなかみんなの命は助からない。

一人の命が助かることと、より多くの命が助かること。
後者をとるのが医療者の役目なんでしょうが。



前者でもいいからなんとかしたいな、とずっと考えてます。

2010-03-13

インド哲学

今日で、第2回ヒンディー語研修、おそらくこれで最後の研修が終了しました。
ああ、ちゃんと上級になるまで勉強しないと、と頭をガーンと打った代わりに、
ヒンディー語で速記ができたり、授業が普通に受けられることを嬉しく思えて、半年の間に少しはやっぱり成長していたんだなと思いました。


何度も書いているように、インドは非常に複雑でそしてシンプルです。
みんな一言で表してみたいと思うけど、それができない感情でインドに生きています。
今回、そんなインドを少しでも表しているなと思える言葉に出会いました。


”क्या गरीब क्या अमीर सबको मरना है”
貧乏だって、金持ちだって、みんな死ぬ


授業で習ったインドのことわざ(?)です。
インドらしいな、と思いました。
だからあきらめるとか、だから仕方ないとかではなく、そういうものだと言いたいんだと私は解釈しました。
焦らなくたっていい、落ち込まなくたっていい、幸せすぎなくったっていい。
最後はみんな死ぬんだから。
死んだらまた生まれ変わるよ。
神様や自然と一緒に、みんな生きてるんだから。
そんな風に言われた気がします。

なぜか、インドの人は決して取り乱したりしない。
ジャンプして喜んだりもしない。
いつも心に静寂と軸があって、そこが絶対にブレないところが、私のインド人の好きなところです。
とてもタフだと思います。
きっとそんな風に生きる背景には、いろんな苦渋も隠れていることだと思います。
そうならざるを得ないのかもしれないし、それが自分を支える心の哲学なのかもしれませんが。


”There is no big change in your life except death"

私の大好きな先輩が、ムンバイの駅の広告でみた言葉だそうです。

生死観は、人によっても、場所によっても違うと思いますが、ささやかだけれど自然の一部として生かされていることをみんな知っているんだなと思いました。

「だから大丈夫」



”どうせ”

事務所の次長が言ってました。
みんなでインド人の性質を一言で表すとしたら何かって話したときに、誰かが発言したそうです。

いい意味でも、悪い意味でも、インド人の中には ”どうせ”がある。
日本語だと聞こえが悪いですが、そうだな、と思います。


全てしっくりくる私は、なんなんでしょう。



昨日、WHO東南アジアトップの方と食事をする機会がありました。
能ある鷹は爪を隠すと言いますが、その方も本当に素敵なバングラデシュの方でした。

”取り残されたところへ行って
 取り残された人々とともに
  取り残された問題にとりくむ”

還暦ぐらいのその方は、そう言ってました。
「たくさん仲間をつくるために、ずっとアジアを歩いてきたんです。」
笑顔でそういって、こんな未熟な私にもエールをくれました。


私も彼も、どんな人生を送るひとも、どうせみんな死にますが、
どうせ死ぬんだから、怖がらずに、くよくよしないで前をみて進んでいければいいなと思えた夜でした。

(どうせ死ぬ、というのは少々大げさな動機づけかもしれませんが・・・)

2010-03-09

愛するきもち

今日、首都ど真ん中のオフィスに行ってきました。
バスで西日にやられながら。
ママさんが、日本から荷物を送ってくれたんですね、オフィスに。
任地までだと、田舎すぎて中身が被害にあったので、じゃ、まあデリーで荷物と待ち合わせしようってことで。

オフィスに、プロジェクトのリーダーもボパールから来てらっしゃいました。
大変素敵な絵を描かれる方ですが、今日も一枚の絵を見せてくれました。

インドには昔、夫が亡くなったらその妻は、夫を天に連れていってくれる火とともに焼身自殺をする習慣がありました。
サティーといいますが、詳しくは割愛します。
それを祀った碑の絵でした。
恐ろしい話といえばそうですよね。
火に焼かれながらあの世に行くんですから。

でも、その絵を見せていただいた時、不思議とそんな気持ちは湧いてきませんでした。
”・・・素敵だな”
というのが、感想です。
私は死ねません。
しばらく会っていないその人の顔や声を思い浮かべてみましたが、私には無理です。


しかし。

どういう形であれ、そこまで人を想うことができるという気持ちは、なんだか素晴らしいもののように思え。
自分はしないけど、そういう事実があったその気持ちはよくわかる、という変な気持ちになりました。


「死ねると思う。この子のためなら」
「代わりに死んであげたい」

臨床にいた頃、そんなふうにいう母親に会ったことがあります。
初めて出会った自分のわが子との対面の、幸せに満ち溢れた言葉でした。
我が子が死ぬぐらいなら、自分が死んでしまいたい、そんな心からの愛の言葉でした。


移転前の住所を知らずに書いてしまい、デリーを一時彷徨った荷物。
心配性のママさんは、デリーに来て荷物を探そうかと思うぐらい心配したそうです(笑)
笑い事じゃなかったみたいですが、笑える私は父親似です。

インドの人に見せたいから、写真をいくつか送ってほしいと言いました。









愛されて育ったんだな、と今更こんな遠くで実感します。











記念碑は建たないけど、そこには愛が溢れてます。


娘より。

2010-03-06

Japan in the heart of India


”再度ヒンディー語を特訓して、仕事に役立ててください。”

そんなお達しがあり、ただいま首都デリーで10日間の研修中です。
久しぶりの都会で、都会っ子の私はまたもや一時帰国気分。
日中は軽く30度を超えるとはいえ、まだまだ。
夕方は日本の夏の夕暮れの雰囲気で、今から花火を見に行きたくなるような、そんな陽気です。
セミは泣いていませんし、実際は日本からの距離は任地と変わらないのに、心理的に近いような気分で少しそちらが恋しくなりました。


そんな中、空いてる時間を使って、初めてデリーで日本語の授業というものを見に行きました。

ここインドにいる隊員のほとんどが、日本語教師です。(助産師は、私だけ。)
日本語の授業なんてみたこと無かったので、先輩隊員さんに頼んで授業に連れていってもらいました。
興味津津です。

ネルー大学っていう、インドの日本語界ではトップレベルの大学にもぐりこみました。
大学そのものが、公園みたいで、ザ・キャンパスという香りがして、映画に出てくるところみたいだった!









ここに住みたい!


それはさておき、一生懸命自国の言葉を学んでくれている姿を目にして。
私でも違いがよくわからないような、ややこしい単語を使い分けていて。

”自分の国のことを知ってくれたり、勉強してくれたりするのはこんなに嬉しいことなんだ”
と、心がポカポカに。









夜が長い を 夜が大きい と言った生徒。
ロマンチックな間違いに、心がキュンとなりました。

全然知らなかったけど、日本語、語学教師っていうのもいい仕事だなーと。


また、今日インド全国からの学生を対象に日本語スピーチコンテストが開催されていたので、そこにも見学に行きました。









下手したら、私より上手なんじゃないかと思うぐらい流暢な日本語。
何より、行ったこともない国の言語習得、その継続する努力を思うと心から尊敬せずにはいられませんでした。
去年の夏、たった2カ月でもあんなに大変だったのに・・・


ヒンディー語で、心臓のことをディルといいます。
「だから、首都はディッリーなんだ」 って今更ですが今日授業で先生が言ってました。

私も一生懸命がんばろう。
一つ壁を超えるまで。
やっぱり誠心誠意尽くさないと、相手のことを心から知ろうとしないとダメなような気がする。
ダメというか、その方が私だったら嬉しいな、と。

大きな亜大陸を支える心臓デリーで、日本を、日本を知ろうとする皆さんを垣間見てそう思いました。
ありがとう、生徒さんと先生達。

語学研修にはもってこい、そして必須である、動機につながるいい刺激をもらいました。

そして、何をさておき、やはり言葉。
それを痛感できたこと、来週任地に帰ってからどうか役に立ちますように。