Theme of the blog

晴れな人生、生き方!
それでいて、夢がちりばめられていて、ところどころで出会えるといい。
自己満足だとも思いながら、夢の一つである国際協力に踏み出す。

*用語説明*
ANM・・Auxiliary Nurse Midwife(准看護助産師) 農村部で15・6の村を対象にドクターなしで診療所を運営する。分娩から成人・子どものケアまで。

ナース・・・日本のように看護師と助産師の資格が分かれておらず、それ以上のことも行う。例)会陰切開や、縫合など

2010-06-23

結婚

インドは、今でも80~90%近くが、親同士が決めるお見合い結婚(Arranged Marrige)が主流。
つい何十年か前では、ほぼいいなづけ状態で結婚式までお互い会うこともなかったそうです。
つまり、残りの10~20%(といっても日本の人口以上)が恋愛結婚。

(*何年か前に旅行で行った、原理イスラム主義のイエメンでは、結婚式で女たちが上から建物の下を歩く男たちを見降ろし、花嫁もそこで初めて花婿を見ていました・・・)


今は、親が決めた相手と2・3回(!)会ってみるか、遠いときは結婚式まで電話で話して、息が合えば結婚になります。
最近はネットや情報網が発達したので、近くではなく遠くの人とも結婚しています。
日曜日になると、新聞3面近くが花嫁・花婿のプロフィール紹介面。
宗教別、カースト別などに細かく分けられていて、もちろん親が子どもの情報を投稿しています。

カースト○○ ヒンドゥー
”何年生まれ 何年にMBA(経済学修士)取得、○○(有名企業)勤務、色白、高身長、ハンサム。カースト不問。携帯番号・・・・”

などなど。


映画やテレビでは自由に繰り広げられる恋愛模様。
しかし、実際には異カースト間、異宗教間、などで結婚することはタブーであり、ましてや女が男より高カーストだと大変です。
人づてに聞いたこないだのニュース。
そんな恥を一家に残されては困る、と、親が実の娘を殺してしまいました。


つまり禁断の恋だらけで、ついうっかり好きになりそうになってもカーストはまずチェックするらしいです。
気持ちが高まる前に抑える努力をするんですね。
しかも誰かと付き合って別れた過去がわかると、女の子の場合キズモノ扱いになってしまい、いい縁談がまわってきません。
代々医者一家の大家さんは、大都会の大企業で働く娘に、”彼氏はつくらないよう”釘をさしてある、と言ってました。(・・・同情・・・)
恋が実らず自殺をした話(よく聞きます)、残念ですが身近で聞いたこともあります。
ま、特に田舎だからというのも大きいでしょうが。


なので、都会の子達はたくさん恋愛もしていますが、
「アレンジの方が親も家族も幸せになれるから、恋愛結婚はちょっと・・・」
「え?恋愛?めっそうもございません・・・」
という子が結構多い。

田舎であるここで、最近お友達が結婚したが高校の同級生で、恋愛結婚(Love Marrige)でした。
「ラブマリッジだってこと、言いふらさないでね・・・」と、ヒソヒソ声で言っていました。


さて。
あさって、大家さんの親戚が結婚式を挙げます。
大家さんの奥さん側の親戚で、両親ともに早く亡くした彼女は、うちの産婦人科に最近異動したドクターでもあり、歳も近いです。(つまり少し遅めの結婚。女は25あたりが売りどき)
初めてうちであったのは1月頃でした。

「まあ結婚はそのうち・・・。まだね」と言っていた彼女。

親代わりの大家さんが、アレンジしていたみたいですが。
4月になって。

「スワティの結婚が決まったわ。先週会わせたら、お互い気に入ったみたいだから。6月に式よ。うちが実家みたいなもんだから、カナもよろしく」



「・・・。」

自由恋愛大国ニッポンも、昔はこうだったのでしょうか。
自由恋愛全盛期に生まれて育った私には、今でもまだ少ししか理解できません。


こういうこともたまにあります。
「○月あたり、結婚式するから来てね!」
「え、良かったね~誰とすることになったの~?」
「相手はまだ決まってないの。」
「・・・・・。」



でも、いえることは、とても幸せそうなこと・・・


「どうしても嫌って人だったらどうするの?」
「好きになれるの?旦那さんとして」
と、みんなに聞くと。

「親が決めた人に悪い人なんていない。どうしてもダメだったら、また探してもらうだけ。」
「恋は、結婚してからするの。」

古い人はこう言ってました。
「どうしても嫌だって思ったって、そんなの自分が受け入れて結婚するだけ。親が決めて、自分は嫁に入るだけ。それが正しいことだって思ってたの。今でこそ少し緩くなって、アレンジに恋愛がくっついたみたいになったけどね」


「・・・?????」

たしかにちょっとくっついたけど、全然、それ恋愛って言わないのでは・・・?
あ、ひとめぼれ?

いや~~・・・
言葉なし。

お国が違うって、こんなに違ってみえるもんなんですね。


ある意味、親も自分も望む条件は両家ともすべて初めからそろっており、今まで恋愛なんていけないものとして育ち、初めっから結婚を前提に紹介されて、初めてそういう対象でみる異性で、お互い特別な存在だと意識することで、一気にもりあがるものなんですかね。


やれ、付き合っただの別れただの
やれ、親の反対だのかけおちだの
やれ、できちゃっただの離婚だの


そういうことを考えると、とても合理的かつ円滑な運びになっているのかも。。。

幸せなら、なんだっていっか。


招待状たち。


2010-06-21

リナの歌


前回記事で書いた、歌の好きなリナ。

歌うから撮って撮って!と言われ、動画を撮ってみました。

このあいだの歌とは違います。

見えにくいけど、満面の笑みで歌ってます・・・。




音楽のもつ力。
それは、言葉や文化を超えて、気持ちが伝わること。

こうやって聴くと、異国の情緒が漂ってますね。


リナ、
「日本行ってみたいな~。1泊2日でいいからさー」
と言っていました。


「・・・・・。」

1泊2日といわずに、大金持ちになったらみんな招待してあげたい気持ちです。

お金がないから気持ちだけ・・・。










2010-06-14

行かないで

県病院でおこなわれている研修、今回の3週間は若い4人組。
21・2歳の女の子達で、新卒あがり。

歳はとってても、顔がうすいので若くみえるのか、言葉がお子様レベルだから若くみえるのか、この年代の研修生が来ると、いつも一緒に仲良くキャッキャッしてくれる。

飲みこみが早く、教えたことはすぐできるし、善悪の判断もまとも。
どんなに辛いことがあったり、理不尽なことがあっても彼女達に話すと楽になる。
何回も繰り返し出会ってきたけど、今回のクールもなかなかステキな女の子達だ。


歌うのが大好き!と言って、いろんなヒンディー語の歌を歌ってくれたリナ。
今日おひるごはんの時に、

「あ、これね、カナディディ(ディディとはお姉ちゃんの意味)のために。」
と言って歌ってくれた。


परदेशी परदेशी जाना नहीं /パルデシ パルデシ ジャナ ナヒーン
(異国の人よ、行かないで)

मुझे छोड़के मुझे छोड़्के /ムジェ チョールケ ムジェ チョールケ
(私を置いて、私を置いて・・・)

परदेशी मेरे यारा वादा निर्बहना /パルデシ メレ ヤラ ワダ ニルバハーナー
(異国の友達、約束してね)

मुझे याद रखना कहीं भुल ना जाना /ムジェ ヤード ラクナー カヒン ブフル ナ ジャナー
(私を憶えていて 片時も忘れないで)

明るい曲調だけど、ジーンとして。
映画では、異国間ではなく異カースト間の恋愛を歌っているそうですが。

泣きそうなのをこらえて、言いました。
「まだ1年以上住むよー」と。

「え、そのあとは帰るの?なんで?」
と、ビックリした純粋な目で見られて、これまたジーンときました。

出会いっていいですね。
ありがとう。

2010-06-11

だいすき!

インドの果物と言えば、マンゴー。
国の果物らしいです。
ほら、国花といえば ”菊” で、
国鳥といえば ”キジ” みたいな。

インドの国花は、蓮。
国鳥は、くじゃく。
動物は、トラ。
そして果物がマンゴーです。


日によって変わるけど、ちょっと高めだったかな。
今日は1kg、30ルピーでした。









1kgって、これが4個ぐらい。
つまり1個あたり、15円ぐらい??

ビバ・マンゴー!!!


関係ないけど、ヒンディー語には女性名詞・男性名詞があって、なんの秩序もなくモノに性別がつく。
たとえばマンゴーも蓮も男だけど、チャイは女とか。
それによって動詞が変化するからまあややこしいんですけど。

感動するのは、なぜか ”母なるインド” という名詞があり、女の性を持っていること。
母がとっても大事にされているインド。
好きなんだろうな。自分の国が。


私も、神秘的な蓮も、甘い甘いマンゴーも、インドのこともだいすきです。

2010-06-10

それでもインドの赤ちゃん

切迫早産といって、簡単に言うと、10か月(臨月)まで育たないうちに陣痛が来ちゃって、赤ちゃんが生まれそうになることです。
体質的なモノもあるし、器質的なモノもあるし、環境によるモノもあるしいろいろ。
日本でも多くって、子宮の収縮をとめるお薬を使って安静にしてもらったり、子宮の出口(入口というべきか・・・?)を縛って満期まで出てこないようにしてみたり。
そうやって、出来る限りお腹の中で育ってもらいます。
胎内の環境を外で作るのは大変で、そして胎内で育つように成熟させるのも大変で、満期まで育ってくれるに越したことはないからです。

人間の体って、つくづく神秘です。


妊娠6カ月のお母さんが、ウーンウーンと言ってやってきました。
「ウーンウーン」と言う言葉が出る時点で、もう結構な痛みが来ていたと思うのでかなり危険です。
でも、子宮の収縮をとめるお薬はありません。
そりゃインドですから、あるところにはあるし、この町にだって入ってこれるはず(もしかしたらあるのかも)
でもとっても高いお薬なうえ、管理だって難しい。
入院して様子を見れる腕のある看護師もドクターもいない。
安静にしてくださいって言ったって、村の女が働かないとみんな食べていけない。
人なんて雇う余裕がないのに、誰がかがんで薪でゴハンを作るのか。
栄養あるもの食べてくださいって言ったって、お金がないと買えないし、肉なんて手が届かない。

生まれようとするときに、産む選択肢しかない。
そのうえ生まれたって、6カ月の子を見れるような設備は何一つない。

家族やお母さん本人はどう思っていたか聞けなかったけど、もちろん私には生まれてすぐ亡くなるしか道がないと思っていたので一応覚悟で見てました。
掘立小屋みたいなきったない分娩室で、他の産婦も他の産婦の家族もみんな凝視。


550gの女の子。
産声を2・3回あげ、ぷるぷる震えて出てきました。
優しく拭き、家族に「小児科に行きましょう」と声をかけたが、「もう頼むからそのまま死なせてちょうだい」って。
「・・・・。でもとりあえず一緒に行こう」と言って、半ば強制的に小児科へ向かうが、いつも通りすっからかんのベッドに、詰所で居眠りしているナース。
「今日、先生休みだし、電気もないし何もできないよ。」とのお言葉だけいただいて、私達は何もできずに引き返しました。
先生だって人生があるし休まないとやってられないだろう。
電気だって計画停電しないと、足りないんだから仕方ない。


分娩室へ戻る最中に、腕の中で息をひきとったので、家族の一人はホッとしたような表情をみせたが、もう一人は目が真っ赤になっていた。

助からないし、助けても後遺症が残るし、そんな治療費払えない。
そう思っているんだろうって私が考えていると、

「神様が連れていってくれる方がよっぽどいいんだよ。女の子だったしね。
あー、大変なお産だった。」
と、家族の一人。


同じインドの大商業都市ムンバイ。
きらびやかな高層ビルが立ち並んでいる都市では、新生児治療室に何床もベッドがあり、この間500gの子ももちろんケアされていたそうです。
日本なら助かったかも、とか、ムンバイなら、とか思わないわけではないですが、考えたって仕方ないこと。
でもその子もインドで生まれて、この子もインドで生まれたのにな、と。
これが同じ国だって思うとなんともやりきれないですね。

当の母は、天井をずーーっとみつめたまま、赤ちゃんのことは一切聞いてきませんでした。

2010-06-09

ヒトの欲

昔臨床に出たばかりの頃、一般病棟に居たことがある。

つまり、産科ではなく普通に疾患を持つ人のまさに「病棟」に。

叫び続ける人、顔以外は動かせない人、夜中中ナースコールを押し続ける人、意識はない人。

8時間トイレに行く暇も座る暇もないぐらいヘトヘトになって働いて、そのうち自分があることを忘れかけていることに気付いた。

”目の前の人が、生きている人間だということ”

当たり前のことを忘れさせるぐらい、人間って環境に飲み込まれるものなんだって改めて気付いた。

その自分が悲しくて、情けなくて、何のためにこの仕事をしてるのかって考えた。


「君にわかるのか?毎日天井ばかり見ている気持ちが」


新米ナースだった私には、返す言葉がなかった。

”病は気から”とか言うが、病が故に気を失ってしまうのだ。

もう一度外が見たい、もう一度料理がしたい、もう一度歩いてみたい。

そうやって、笑わなくなった人、意識がなくなった人。

そう感じてるんだろうなと本当の意味で感じて看護することができたのは、自分に余裕ができてからだった。

だけど、感じただけで、理解はできなかったものだ。
きっと、私が元気だったからだと思うけど。



いつも行く八百屋さんの近くに、何歳かわからない、おばあさんのようなヒトが、道路の隅で寝ている。
一体生きているのか死んでいるのかわからないような寝ぞべり方で。
でも毎日場所が変わっているのでおそらく生きているんだろう、ってしばらくしたらわかった。

先日、野菜を物色していたら、そのおばあさんが寄ってきた。
片手を前に出しながら。
とっさの私は「・・・ぅう。」って思って反射的に身構えた。
でも八百屋の兄ちゃんが、「ほら!あっちいけ!」と言って、5ルピーを投げた。

八百屋の兄ちゃんだって、朝の8時から夜の8時過ぎまで炎天下でずっと野菜を売ってるけど、決して贅沢な暮らしではないはず。

私だって、大金持ちじゃないけれど、ふと思った。
「このお金を抱えて、私はどうするのか」って。
もちろん、これからの自分のこと、将来の家族のこと、どんなときだってお金はあるにこしたことはないんだけど。
だからカツカツで生きないに越したことはないのかもしれないけど。
でも、じゃあどうして八百屋の兄ちゃんはお金をあげられるんだろうって。

”え?なんでこんなおばあさんにあげるの?” って意味じゃなくって。


私には、欲がありすぎるのかな。
それともケチなのか。
それともそれが正義だと思って奢ってるのか。
贅沢から抜け出せないのか。
思いやりが足りないか。
結局は人間は自分が一番大事なのか。


インドに来た冒頭部分でも同じようなことを書いてるけど、どうやらまだまだわからないようです。

2010-06-06

帰ってきました

「全然更新なかったからどうしたかと思った!」
なんて、うっれしいことを言ってくださる方がいらっしゃったので、ちゃんと更新しようと思います。
極少数であろう読者の方々に感謝して・・・。
元気に生きてます!

総会っていう、まあ大きな会議が首都デリーであったので、そのため家を空けていました。
事前の準備やらなにやらもう多忙な日々に加え、あいにく向こうでのネット環境が悪く、更新もできず。


東京に住んでた4年と少し。
帰省するたびに、東京に住んで働いてたことがまるで嘘か夢のように思えたことを思いだします。
そして帰省後、東京に帰ってくると、それもまた自分の家に帰ってきたようにホっとしたことも思いだします。
境目にいたのは、いつも新幹線が出て10分ぐらいだけだったな~。


デリーに行って、もうダモーに住んでたことも嘘みたいに思えたけど、やっぱりダモーに帰ってくるとここが家だと思ってしまう。
デリーで日本語話しすぎて、もうこっちでヒンディー語忘れてるかも、って思ったけどやっぱり普通に話せた。良かった。


朝5時に家に帰ってきて、そのまま汚れた家の掃除をしていたら、大家さんがチャイとビスケットを持ってきてくれた。
朝の涼しさと小鳥の声、誰かが思ってくれる優しさに触れて、”帰ってきた”って思えました。

なんにもないところだけど、「どこ行ってたの!?」 って言ってくれる人がいっぱいいる、私にとっては温かい場所です。

2010-05-18

油断も隙もない!

注:食事中には読まない方がいいと思います。


相変わらず、ネズミさんがどっからやってきてるのか、ウ○チを毎朝定位置になさっている。
暑くて水ばっか飲むものだから、夜中にトイレに行こうとパチっと電気をつけると、Gの活動タイム。
夜中に無心で殺す私、「強くなったのか、慣れたのか、はあ・・・」と言って、また眠る。
気付いたら、身長わずか3cmぐらいのチビやもりを、少なくとも3匹飼っていることになった。
いずれすぐに大人になることを考えると、気分は盛り下がる・・・。

古くて隙間だらけだし、っていうかなんてったって大自然だし、暑いし、ある程度もう共存は仕方ないし、特に害もなければ取り立てて騒ぎもしない。
これでも必死に掃除してるんですヨ!効果特になしです。

だから、たいていのことにはもうビックリしたり、ギャっ とか言わなくなってきた。
ある程度、いるかいないか予測もつくし、いるかなーって思ったら、事前にバンバンって足音立てると逃げてくれるし。

しかーし。
大事な大事な水フィルターの、濾過されたお部屋をのぞいたときに、アリがたくさん浮いていたとき。
この悲しみは、誰と共有すればいいんでしょう。
新しく買ってきて、ちなみにどうかな~♪って、試しに開けて本当に良かった。
何杯かは、きっとアリさんも飲んだけど。
ま、胃にアリの巣作ったりはしないだろうから、よしとしよう。
でも、それから見るたんびに入っている。
もうーー!どっからはいるのさ。
1mmにも満たない、茶色の点のようなアリ。
キッチンテーブルは黒っぽい石だから、見えないし。
もはや彼らの入れないところはないんだな、きっと。
フィルターに水を貯めっぱなしにはせず、濾過したらすぐにせっせとペットボトルへ詰め替えることにした。

「ったく。チッ」と思って、今夜も翌日の水作りをしながら。
ふと、その横の米びつ代わりの透明なプラスチック製瓶を見る。
なんか、く・ろ・い
く・ろ・いのが、ちっさいのが・・・・動いてますよね。
フタはネジ式の完全密閉なその空間。
外から入りこむのは不可能。
「・・・・」
もういやだーー!

私がバカだったんです。
だって、米袋に入った米しか買ったことなかったから、日本では!
米=キレイ、に決まってるって思ってた。
んなわけなかった。
そりゃそうだ。
秤売りでのあの店が、どうお世辞を言ったってキレイなわけないし、むしろ激汚いわけで。
人の家に行くと、やったらみんな米とか麦とかお皿に乗っけて、話しながら触ってるなーって思ってたのに気付けなかった。
みんな、余計な物を取り除いてたんですね。
おかげで、炊きあがった虫とか、炊きあがったその幼虫とか食べてたワタシ。。。
ガックリ。
で、意固地になって虫探しをするが、その度に大事な米がサラサラーとかこぼれてしまって、イライラMAXに。
「こんな夜中にやっても仕方ない、どうせ、食べてきたんだし!
と思い、明日仕事から帰ってきたら、真っ先に米一粒一粒調べてやる!と思って、キッチンの電気を消しました。

ったく、油断も隙もないよ、田舎ってやつは。
油断と隙だらけの生活、懐かしいし、ありがたい。

2010-05-16

おそらく永遠に議論され続けるテーマ


先日、日本人スタッフから読むといいと言われて一冊の本を読んだ。
厳密には、上下で2冊。












インドでは非常に有名なこのプーラン・デヴィという彼女は、下層カーストに生まれ、筆舌に尽くしがたい暴行や差別を受けて、ダコイットと言われる盗賊になり、最終的には国会議員にまでなった女性だ。
一見、差別を受けている人が立ちあがる、ある種聞いたことのあるドキュメンタリーの様に思うかも知れないが、そこには想像を絶するカースト制度の裏側と、インド農村部における女性の実態が描かれていた。

おそらく何百年もたいして大きくは変わってないんじゃないか、と思われるインド。
ITが進んだとか、そういう話ではない。
昔の面影がそろそろ完全に消えようとしている日本のような国ではなく、ずっと根強い慣習や伝統や文化といったものがそこにあるように感じるインド。
そして、私の住む町のさらに郊外は、本に描かれているような生活風景と今もなんら変わりはない。
女性達は、毎朝頭に大きな瓶を2つものせて井戸水を汲んで歩いているし、川で洗濯して、牛糞を手でまるめて乾かしている。
一つも変わってないと思う。

だから、とてもいい面もあり、だから、とても悲しい側面もある。


この女性は、ちょうど私の母と同じ世代に生まれている。

つまり、当の昔の話ではない。
そして、やはりたいして変わってないインドのことだから、きっと今も無数に第二のプーランがいるはずだと思っている。


カーストが、悪いとか良いとか、そういうことはどうしてか、私にはどうも意見できない。
おそらく、インドに来たことがなくって、インドのことを全く知らなくって、よその国で生活していた時に、カースト制度の話を聞いたら、”なんてひどい制度だ!”と憤慨していたのかもしれないけれど。
そんな風には、簡単に言えるような問題じゃない、って、それだけはわかるような気がする。

「人の値打ち」    江口いと

何時かもんぺをはいて
バスに乗ったら
隣座席の人は私を
おばはんと呼んだ

戦時中よくはいたこの活動的なものを
どうやらこの人は年寄りの
着物とおもっているらしい

よそ行きの着物に羽織を着て
汽車に乗ったら
人は私を奥さんと呼んだ
どうやら人の値打ちは
着物で決まるらしい

講演がある
何々大学の先生だと言えば
内容が悪くても
人々は耳をすませて聴き
良かったと言う
どうやら人の値打ちは
肩書きで決まるらしい

名も無い人の講演には
人々はそわそわして帰りを急ぐ
どうやら人の値打ちは
学歴で決まるらしい

立派な家の娘さんが
部落にお嫁に来る
でも生まれた子供はやっぱり
部落の子だと言われる
どうやら人の値打ちは
生まれた所によって決まるらしい

人々はいつの日
このあやまちに気付くであろうか


インドは、着るものや、話し方や、学歴や、肩書きや、しいてはもちろん名字や職業や場所で瞬時に扱いが決まってしまう。
それは差別ではなく、男女が違うように、まさに「区別」のように浸透している。

それって嫌だよね、とか。
それって最低、とか。
間違ってる、とか。
そういうことを発言するのは、簡単なことだ。

私だって、そう思わないわけではないけど、でもちょっと待って、とも思う。


日本にも、いろんな差別も区別もある。
見せないように取り繕っているだけで。
人間がみんなで住む限り、社会がある限り、そういう問題ってずっとあるんじゃないかな。
ましてや、宗教がそれに関与していれば、なおさらのこと。
制度や改革では、人の根本的な思想というのは変えられず、何人か寄れば必然的に形成されていく社会の構図は、ある程度仕方ないとも思う。

大事なのは、わからなくってもいいから、考えたり関心を持ったりすることと、
大切な人は、ちゃんと大切にするってことかな。


未熟な私は、その程度の答えしか出せなかった。
残念だけど。

2010-05-07

県病院の次の規模にあたる、小規模な病院へ今日はまた足を運んだ。
ナースは4人、病床は20床程だ。
県内に7つあるそれらは、だいたいここから2時間程のところ。
その一つへ。

3人目の子をお腹に抱えたお母さんがやってきた。
子宮口は3cm。
お腹のすいた午後2時半。
陣痛がきたらすぐに電話してもらうようナースに伝えて、そとへ食事に出た。
ちょうど昼食をとり終わり、さあ右手を洗おうってときに、携帯が鳴り、まだカレーがついてるんじゃないかって思いながら超特急で戻る。
地下の売店に行ったと思ったとたん、PHSで病棟から呼び戻されたあの昼休みの時間を思いだして、少し懐かしかった。

暑いこの時期。
フル回転させて風を起こす天井のファンを産まれてくる赤ちゃんのために止め、一つ一つの言葉を紡ぐようにキレイに話し、動線がきれいで、素早いがぬかりなく丁寧。
決して焦らず、出てきたいように出てくる赤ちゃんと対話をしながら、そっと手を添えるようにお産をとった。
この世界は頭のキレ味とセンスのいる、まさにアートの世界だと思うが、彼女は立派なアーティストだった。












なんて、ひどいお産なんだと、悔し涙に悲し涙。
そんなお産をずっとみてきたここインド。
勉強したことを素直に受け止め、仲間と手を取り合い、お母さんと赤ちゃんのためを思った助産をしている姿を初めてみて、嬉しいという言葉では足りないぐらいの感動を覚えて、言葉が出てこなかった。
きっと普段は誰もそれを見てはくれていないはず。
それでも一生懸命、使命感や好きという気持ちや、なんらかの思いでやってきたんだろうな。
精一杯のヒンディー語で、精一杯の感動を伝えたつもりだ。
彼女のさらなる前進の動機づけとなってくれれば嬉しいし、もっともっと関わりたいって、私、一助産師としてそう思った。

素敵なお産をみせてもらった帰り道。
真っ黒で逝ったあの子や、目を閉じることもできずに逝ったあの子や、むくみきった体で横たわったあの子達が、あたまの中に一気によみがえってきて、今日生まれたその子の命の尊さを思い、なんだかボロボロ泣けてしまった。
走らせる車の外は、ずーーーっとずーーーっと遠くまで続く地平線に向かって、砂埃が舞っている。
やってきては、去っていく。
去っていっては、やってくる。
時や風のように。

インドで初めての、突風が吹いている今晩。
電気はさっきからチカチカチカチカしている。
停電かな。
今日のあの子の命もこんな風に力強かったな。














窓がガタガタ言ってます。
”また、やってくる”

インドの助産師さんと一緒に、やっぱり頑張ってみよう。
夢膨らむこれからに、来てよかったと一番強く思えた日でした。