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晴れな人生、生き方!
それでいて、夢がちりばめられていて、ところどころで出会えるといい。
自己満足だとも思いながら、夢の一つである国際協力に踏み出す。

*用語説明*
ANM・・Auxiliary Nurse Midwife(准看護助産師) 農村部で15・6の村を対象にドクターなしで診療所を運営する。分娩から成人・子どものケアまで。

ナース・・・日本のように看護師と助産師の資格が分かれておらず、それ以上のことも行う。例)会陰切開や、縫合など

2011-01-13

ありがとう、ダダ。


何かとっても印象的なことがあったとき、人はその日の天気をよく覚えているような気がします。

”あの日もこんな朝だった” のように。


今日、まだ辺りに暗さが残る早朝、響き渡る誰かの叫ぶような泣き声で目が覚めました。
寒くて出られない布団の中で私の心は、

”ああやっぱりそうだったのか”

と、静かに思いました。



2 日前。

厳しい寒さが少し和らぎ、朝から陽の照る1日でした。
いつもより仕事が長引いた私は、薄暗いグレーになりかけの夜に帰ってきました。
家の前の道から裸電球が灯る隣の家の玄関に続く、長蛇の男の人の列。
誰が誰だかわかんないぐらい、まさにその夜のグレーと同じぐらいの暗さがその列を覆っていたのです。
なんか、暗い・・・って思ったけど疲れていた私はそれ以上のことは何も思わず、さらにピンとこなかったので、「今日なんかの日だったかな?なんか気持ち悪いな」と思って部屋に入りました。


そして今日、大家さんに朝の泣き声の話をして初めて知りました。
予想通りでした。


隣の家のおじいちゃんが死んだこと。


ヒンドゥー教は、お葬式関係は男の人だけで執り行います。
遺体を運ぶのも男の人達。
たまにみかけるので遺体に手を合わせていたのですが、あの列はダダのそれだったのか・・・とわかりました。


つい5日前、遅ればせながら新年の挨拶に寄ったところでした。

「カナ。バダイホー。(おめでとう) 寒いなあ。急に寒くなった。寒い寒い。」と言って、布団にくるまってました。
もう行くって言ってるのに、「座れ座れ」って言うから、何もせずしばらく座って。
「じゃあ行くね。ダダ、またね」と言ったのが、最期でした。


来た当初、意思の疎通もできないのに買った野菜をみせたり、よく隣に座りに行ってました。
言ってるヒンディー語がちんぷんかんぷんで、「この薬を買ってきてほしい」って言っていたのに、薬の成分を聞いただけで帰ってきてしまい、ダダが少し悲しそうな顔をしたこと。
「ニホンはどっちの方向だ?あっちか?こっちか?」と何度も聞き、そのたびに、キレイなピンクの花を咲かす木を指して、あの木の方向だよ。って言ったこと。
デリーで買ったお菓子をタッパーに詰めて持っていったら、すぐにそのタッパーに別のお菓子を入れて、私の玄関まで持ってきてくれた。
慣れない名前を、「カナーカナー」って呼びながら。
どこの星から来たのかわからない外人に、とっても優しくしてくれたものです。

いとこの奥さんのこどもの旦那のおとうさん・・・? あたりまで親戚なインド。
人口密度からしても、親戚の多さからしても、コミュニティの親密さからしても、誰かの出産も誰かの死も毎日の流れの中の出来事のひとつ。



जिसको चलना है वह चलता है
ジスコ チャルナー ヘイ ウォ チャルター ヘイ

って、涙見せずに言うインド人。


「逝くものが、逝くんだよ」

って。




そして、

मुझे भी आपको भी सब को मरना है
ムジェ ビヒ アープコ ビヒ サブコ マルナー ヘイ



「私もあなたもみんな死ぬの」

って。




だから。

だから、
जिससे मिलना है उससे अब मिलो
ジスセ ミルナー ヘイ ウスセ アブ ミロ


「会いたい人には、”今”会いに行きなさい」

って。




ダダジー、良かったね。
冬の晴れ間の空は、きっと布団より暖かいから。




どうもありがとう。











2011-01-09

カレー

日本人の頭の中の、インド代表ワード1位はおそらく「カレー」でしょう。

昨日、料理をするのが面倒で日本人の方に頂いた日本のS&B食品のレトルトカレーを食べて思いました。
「ハッ、なんて懐かしい味。カレーに関する話を書いておかなければ」
と。


はっきり申し上げます。
インドにおいて、カレーという料理は存在しません。
日本はもう和食も洋食も中華もなにもかも家庭の食卓に並ぶので、純粋な和食だけを食べている人は少ないかもしれませんが、要するにだいたいの料理に、しょうゆ、みりん、酒、ダシを使っているのと同じです。
インドの料理も、メインで使う調味料が決まっているので、もしそれをカレーと呼ぶならば、すべての食事はカレーです。
でも、日本で食べているカレーライスとはまったくもって違うものだし、日本のインド料理レストランのカレーとも違います。
ナンは、家庭では食べられません!
南インドでは、北インドと全く違うカレーだし。
主食まで違う。


それから、私は、「インドは・・・」と説明するのはどうも嫌です。
だって、インドって、日本の10倍の面積と、13億に近い人口と、何千もの言葉がある国です。
インドは、って言えない。
ヒマラヤの雪がじゃんじゃん降り積もるところも、バングラディシュを超えたミャンマー側の土地も、年中常夏のモルディブ側も、農業のみが売りのこの内陸も、全てインドなんですもん。
それに、食事だって全然違う。
辛いものから、辛くないのまで。


日本のカレーライス。
日本のインド料理屋さんのカレー。
インドの、レストランで食べるカレー。
インドの、家庭で食べるカレー。
南のカレー。
東にいたっては、カレーを食べていないところだって。
これら、全部、全然違います。

私は、北インドの、家庭料理のカレーが一番好き。
毎日家庭のカレーを食べていて、誰かの家でしょっちゅう家庭のカレーを食べていますが、家庭ごとに全然味が違うし、2度とお目にかかれない組み合わせが無数にある程、種類の豊富なカレーの種類。


それらを、もしも総称してカレーと呼ぶのならば。


世界は広いです。
日本の雑煮の違いが奥深いように。


百聞は一見にしかず。
偏見と、独断と、思いこみで物事を見るのではなく、機会がある幸運な人は、いろんな世界を見てみよう。

おたんじょうび

いろんなことが重なって、バタバタしていた年末年始。
お正月のないインドで、正月ボケ状態です。
ゆっくり振り返って記事を書こうと思いながら、2011年も1週間経ちました。

12月の29日は、私の29回目の誕生日でした。
インドで迎える2回目の誕生日、ついに「華」の20代も最後の1年となりました。
思えばこの10年程、重さにすれば測りきれないほどのズッシリと中身の詰まった10年で、記憶のある人生でこれ以上中身の濃い10年は今後やってくるだろうかと思うぐらい充実していました。
ジェットコースターのように早かったけれど、楽しいことも辛いこともたくさんの、まさに華の時間でした。
20代あと1年、(ほとんどインドですが)楽しみます。


年末、お友達の家に1週間程あがりこんでいた私は、誕生日当日もこの町から電車で7時間程のボパールという州都のそのお宅にいました。

9時、お出かけ用にオートリキシャーを呼んでくれています。














用意をして1階に行くと、ケーキを用意してくれていました。














朝っぱらとか、ろうそくの数とか、関係なし。
気持ちが嬉しい。

ボパールの大きな湖のほとりにあるカーリー様(ヒンドゥーの神様の一人)の寺院へお参りに。




















気温1ケタのこの季節、裸足で感じる寺院の冷たさはいつも神聖に思えます。
















お昼は南インド料理を。写真はドーサという食べ物。



















夕方は親戚のおうちへ。




















日本以外は結構このスタイルが多いと私は思うのですが、誕生日を迎えるものがお菓子を配ったり、ケーキに関しては、ケーキ入刀を行い、みんなに食べさせる。














あ、授乳期のこの子にも・・。










夕食をいただき。















ごちそうさまでした。















ではなくこれは、ナマステ。



2011-01-05

からだにやさしく

本日の気温3度のインド中央内陸部より。

6~9月の雨季以外、全く雨が降らないので、髪や肌がパッサパサになります。
甘くみていた去年は、案の定髪が手のつけられないことになってしまい、一時帰国で日本の敏腕美容師さんに高級トリートメントを施してもらい、なんとか生きのびた次第です。
この歳での肌や髪へのダメージは大変なことになり&今後の美容人生に関わってきますので、一大事!

インドは、古くからアユールベーティク療法がさかんです。
中国で言うところの漢方ですね。
みんないろんなことを知っていて、何気なく日常に取り入れています。

髪にはこれがいいとかあれがいいとか。
いろいろ聞いたんですが、薬草とか買ったり混ぜたりしたかったんですが、めんどくさくて結局こないだ首都デリーのスーパーで、完全無添加アユールベーティックの化粧品会社数社より、ヘアパック用に既成品を買ってきました。
肌用、髪用、無添加商品がインドでは高級価格で(日本円にすると破格の値段)で売っているので、たくさん購入。
塗りたぐってます。
一瞬の乾燥も許さない!


で、今日、高級ヘアパック(若干400円程)を開けてみた。


















「・・・・・・・」

うわ・・・・すごい。

調べてみると、
麝香(じゃこう)というのが主成分。
オスのジャコウ鹿という動物の、腹部のジャコウ腺から出る分泌物を指すそうですが、その匂いに似た植物の根、を使ったものとの解説。
?????
・・・は??
ジャコウ鹿って誰??
鹿買えないから、既製品で良かったわー。

でも、アユールベーティックは植物のみなので、それに似た匂いって・・・まあまた主観的なことですこと。
あとは、甘草とかナツメグとかね、入ってますって。

使用法に、卵かヨーグルトを混ぜて使用って書いてあったので、家を空けてた間に少し古くなってしまった卵を混ぜ混ぜして、魔法使い気分で完成させました。

シャンプーした後は、ブリンガラジという植物のオイルを塗り塗りし、顔にはリンゴ・イチジク・パパイヤパックで完全防備。

どれもこれもいい匂いなので、幸せです。

日本の白さと湿度を取り戻さねば。

Anyway、安いって素晴らしい。

2011-01-03

気が合うから


今日、出勤中のリキシャーに乗って、遅ればせながら”今年の目標”について考えてみましたが、情けないことに目標がみつからず。
「目標をみつけること」が目標に・・・。

だって、今年1年の目標を考えるってことは、インドから帰った後自分がどうなっているかってことを少なくとも考えて立てるってことで・・・。
それはもちろん考えないといけないんでしょうが(いい大人だから?)、それを考えただけで寂しくなり、放棄してしまいました。

インドに来て4カ月後、そして1年を過ぎた去年の秋~冬、一番日本に帰りたいピークでした。
それはインドが嫌いだからとかではなく、日本しか好きになれないからとかでもなく、単なる寂しさだったと思います。

でも、年を越し、今年帰国予定になった今。
自分がどれだけインドを愛しているかに改めて気付いた気がします。

いいところも悪いところもたくさんあって、正直大変なことももちろんあります。
でも、インドに恋をしてしまった私は、悪いところも愛おしくて仕方ない。

インドには、インド人に生まれない限り、ヨソモノには決してわからない部分わからせてもらえない部分がたくさんあり。
インドが好きがゆえにそれが時に悔しく、嫉妬し、でも第三者だからこの魅力に気付くのかもしれないって自分を納得させ、それでも自分の国が大好きなインド人をみているとやっぱり悔しかったり。
この気持ち、うまく言葉にできないんですが。

うすうす気づいていましたが、関西(大阪?)にとても良く似ています。
誰に何を言われても、関西・大阪を愛してやまず、他がどうであれ羨まず(興味もなく)、人情深いが排他的、いくら関西弁を話しても関西に生まれ育たないと肌でわからないことがある(そして、そうでしょ?って思っているところが関西人の中にある)、飾らず心は裸にみえて実はしたたか、商人のDNAか人を見抜く力がズバ抜けており、そして明るく前向き、キツイとか言われるがみんなとても優しい。
世界にはインドしかないと本気で思っているであろう人々をみていると、なんだか似ている部分が多すぎて、ニヤっとします。


どうして好きなのか。
わかりません。
いいところを挙げよと言われ、片手で済むぐらいしか思いつかなかった。
でも、好きなところならいくらでも。
それはきっと人によってはインドの嫌いなところ。

結局、私と気が合うんだと思います。

理由なく誰かを好きになったり、理由なく好きな食べ物や音楽があったり。
栄養豊富だから好きだ、とか、○○コードの曲が好きだ、とかではないのです。
「好き」なだけ。


何かをみつけに。
わざわざ騙されに。
つっこむところを探しに。
自分を探しに。
いろんな理由で旅行に訪れる人が増えるインドですが。


私の中での「インド」は、たった一つ。
いま別れを思い描いただけで、涙が溢れてしまうようなたくさんの大切な人達との出会いと時間、そして大切なことをたくさん教えてくれたインドの人達の哲学的な生き方です。
デリー育ちのインド人より、私の方が知ってること、たくさんあるっていう自負。
きっと都会育ちの日本人が、日本の田舎で何が起こってるのか知らないように。
神様がくれた、インドでの時間。
素敵な時間です。


「ハッピーニュウイヤー」と声をかける相手が去年こんなにいたかな?ってふと思った時。
気づいたら、たくさんの同僚や友達に囲まれて、私はインド人じゃないんだな、って気付かないと気付けないぐらい周りはインド人だらけで過していました。
そして子どもレベルのヒンディー語の私のことをとっても大切にしてくれ、のびのびと活動をさせてくれました。


私が出会ってきた多くのインド人達は、騙されるほどに純粋で、うっとうしい程に優しく、いい意味でも悪い意味でも「今」だけを生きています。

「今を生きること」
それが自分達に課せられた現世での課題だから、と言って。

過去に捉われず、未来に期待しすぎず、今を大切にする難しさと大切さをたくさん教わりました。


飛行機も、インターネットもある時代だから、きっと生きていればいつか会えるかもしれない。
でも、もう会えないかもしれない。
彼ら彼女らと別れた後のことを含めた1年の目標は、どうしても立てられませんでした。


1年後の、2012年の私に向けて。

「インドを忘れないで」


さて、そんなインドであと9カ月、精一杯毎日を暮らしていきたいと思います。
みなさん、今年もよろしくお願いします^^






































2010-12-26

あああああ

「あ」っと言う間に、今年が終わりそうです。
このままいくと、もう記事を書く時間もないので、これで今年は最後になってしまうと思います。
みなさまいかがお過ごしですか。


さて何がそんなに忙しかった、いえ忙しいのかと言いますと。
2カ月程前から、ここ「ひかり」で書いたナースに私はしっぽを振りつつ、本格的に県病院の産科の大革命にとりかかりました。

彼女達にまず優先的に助産の研修を受けさせてくれた配属先に感謝し、その研修(いつも病院で行っているもの)につきっきりで(いつもつきっきりですが)、指導に精を込めました。

彼女達には、
「このトレーニングが終わったら、一緒に大変化を起こそうね」と洗脳し、
いつも支えてくれていたけど協力者と時間があまりに少なかった女医さんには、
「スタート切るときは、あなたの協力なしでは無理なの。お願い力を貸してほしい」と懇願し、
その傍ら、血圧計の一つもなく分娩台だけがボーンと置かれた分娩室を、まずは“分娩室”とするために、今一度ひとりで物品の総チェック。
ずっと棚のカギを握って離さなかった産科のボスも、分娩室専用のナースの配属とくればお手上げで、鍵はもう私達のものに!

今あるものは何で、何がないか。
一度請求すればそれで済むものと、毎月請求しなければならない消耗品は何か。
毎月の消耗品は1カ月あたりのお産につき、どの程度の数があれば不足せずに済むか。
物品リスト作りから。
(これ、日本で嫌々数年やってた物品係ってやつが、本当に役に立ちました。あの時の環境に感謝)
ナースと一緒に何度も修正をかけながら、重箱の隅をつつくようにモレのないようリスト作り。


さて、どの物品はどの部署の誰に頼むのか。
どの薬品は政府からの供給があって、どの薬品は患者さんに店から買ってきてもらうものなのか。
そう広くはない院内の、今まで行ったこともない部署に、新参で肩書きがない者が行っても一筋縄ではいかないインドをよく知っているので、初回は女医さんを引き連れて、そしてその後は自分一人でも、ナースを連れてでも何度も請求しに行けるように顔ツーツーローラー作戦に出たわけです。


と、まあここらへんまで来たときに、なんと政府の保健計画の評価のために、各州から1県選んで視察するというイベントが浮上。
そしてなんとこのMP州ではダモー県が選ばれたのです。
さて。
こんなチャンスがあれば、お金とヒトが動くのはもう簡単なのが権力大国途上国。
サーフボードも買って、スーツも着こみ、早起きして、準備体操もしていた私達は、大きなウェーブに乗ることができたのです。


なぜ今までできなかった?と首をかしげるぐらいに一気にモノが揃いました。
もちろん、ああでもないこうでもない、いやアレも必要、やっぱりこれはいらないとか言いつつ。
インドはなんでも1度では無理なので、何回も”足を運んで”、「こないだ言ってた○○まだ届かない?」と催促に苦労。
しつこい方が勝てる国。催促勝ちしながら一つずつゲットです。


お産を取り扱う場所なので、2・3日閉めて一気に片付けてキレイにしてまた再開ってことができないんですね。
新しい物品を置きながら、片づけながら、モノの配置を決めながら、分娩ベッドを入れ替えながらも数時間置きにはお産が横で起こっています。
だから、とっても難しい。
とりあえず新しいものは一気に変えて、一気にスタートを切らないとだめだったので大変でした。

モノがそろったら、それを誰の責任で管理するか、誰に何をしてもらうかってことが次の課題になります。
消毒液の入れ替えや滅菌は、助手さんだけど、滅菌後の分娩機材をセットするのはナースにしよう。とか。

でも、そんな姿を見ていてくれてか見ていなくてか、まあそんなことはどうかよくわかりませんが、助手さんやスイーパー(お掃除の人)が、本当に協力してくれました。
10数年っていう勤務歴のみんなが、何か聞いてくれたり、一緒に働いてくれたことはとっても嬉しいことの一つでした。
実際に、全てパック済みの使い捨てだった日本の臨床とは違い、ガーゼは小さくきって、コットンでパットも作って、滅菌も自分達でやって、っていうそういう日本も昔やってたことは、彼女達の方がとてもよく知ってます。
そういうわからないことは、素直に聞いて、そうやってお互いの得意分野を合わせながら損得勘定なく一つのことをよくしていこうという気持ちが起こったのは今回の一番の収穫だったんだと思います。


私は、この仕事だけしてればいいかもしれないけど、ナースもスイーパー達も、自分達の本来の業務をしながら、この仕事をしていました。
だから、一番頑張ってくれているナースのシャンティ(名前)なんかは、
「なんか私達だけ頑張っててフラストレーションたまるわ。せっかく決まり事を決めても、あっちやこっちやらで全然違うことしてるしさー。もう!」
って、なったときもありました。
でもそういうときこそ、私の仕事だと思いました。
孤独感から救うこと。
必ずいつも味方だということを示すこと。
私もそうやって女医さんに支えられていたから、ずっと気持ちを持ち続けられたし。
「私だって、シャンティがいないとできないんだよ?」って。
そうやって、ジャレビ(お菓子の一種)を奢ったりして、また次の日に倉庫へ行ったり。

こんなことに辿りつくまでに1年かかったのか?
って、ふと頭をよぎりましたが、初期では絶対できなかったこと。
だって、人間関係があって、縦関係をちゃんと把握して、私がやっても無視されない私の存在を認めてもらい始めて、そして言葉ができる。
だからやっぱり、今じゃないとできなかったと思います。

そんなこんなで、お金はいまならいくらでも出してもらえる!って思った私達は、ペンキまで塗り替えさせて、見た目はなんとも見違えるほどの分娩室にしあげました。
何かの感覚に似てるな、って思ったら、文化祭の準備でした。
ああいう共同作業の達成感・・・・

さて、これからです。
始まったばかり。
”維持”が一番難しいんだから。

目に見えるところは変わりました。
目に見えない、看護の仕方やケア、モチベーションや、コミュニケーション。
そういうものへの働きかけが、もっとも重要なところです。

それに加えて、今フィールド(郊外)で働く看護職対象にニュースレターを作成中。
これについてはまた今度。


ゼロだったものを1にするのが一番の苦労。
1さえくれば10になる、って尊敬する専門家の方が言ってました。

私たちは、やっと1になったとこ。

それでも、something is better than nothing ですね。


「やってだめなら、また変えればいい。」
一見、無責任にも聞こえますが、何にもやらなかった人よりずっといいですよ。
たった1部屋変えるだけでも大変なんだから、大阪府を変えようって頑張ってくれてる橋下さんには頭が下がります。


そんな、こともあろうことか知事に共感している、インドの片隅の一助産師です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1年まるまるインド2010年が終わりを迎えます。
いつも読んで応援してくださってるみなさん、ありがとうございます。
みなさん、よいお年をお迎えくださいね。

次の更新は年内が無理だったら、新年とさせていただきます。

2010-11-29

Photoシリーズ ① あかちゃん

写真だけの記事ってのもいいかな、と。

まずはやっぱり。
職業柄、世界共通で愛くるしい赤ちゃんたちを。

生まれて5分。













「インド人も、生まれたときは白いのよ?」



生まれて15分。
「ここどこ~~~?? 怖い・・・ぅぅ・・・」



















男の子と女の子。
私達、双子。













赤ちゃんでも、もう、鼻高い・・・



目の周りを黒くするのは、魔除け。

















あんまり可愛いとあっちの世界に連れていかれちゃうから・・・だそう。




「・・・・・」














「あんた、誰なん?」





Baby ・・・ シシュー
Child ・・・ バッチャー

2010-11-25

マイナス感情をプラスへ

現代の日本では、99%の人がお産のときになんらかの施設と言われる家ではない場所で赤ちゃんを産んでいます。
詳しい話は今回はしません。
が、つまり日本のお産の大抵の場合、正常なお産でさえ少なくとも2人の介助によりお産を支えています。

そして突然、”正常”から”異常”に変わることがある産科は、お母さんや赤ちゃんに何かあったら総出の人数を必要とします。
命も2つなので、それなりの人数が。
産科救急の世界は、救急と同じく一刻を争い、そして最大の幸せが最大の不幸へと移りゆく可能性の間の時間を通りぬけるので、特殊な感情と映像が行き交っている世界のような気がします。


指示を出す人。
指示された物品や血を運ぶ人。
注射をどんどん開封していく人。
それを吸いあげ投与していく人。
状態を観察する人。
他科に連絡する人。
オペの準備に備える人。
起こっている事実を分単位で記録していく人。
封を切られた様々なモノのゴミを片付けていく人。
茫然とたちつくす旦那さんを気遣う人。
人手がとられてそこだけにスタッフが集中している間に残された他の患者さんを気遣う人。

チームワークと、スピード、急いでいても失敗は許されず、適切な処置と心のケアを必要とされ。
赤ちゃんが生まれていれば赤ちゃんを同時にケアし、生まれていなければもっと大変で。

とにかく、お産という現場に慣れている私達でさえ、緊張感が心臓を突き破るのではないかと思うほどの空気が流れ、そして2時間が2分ぐらいにしか感じられないスピードと、終わった後の雑然とした部屋の汚れと疲労感が残ります。

普段は忘れていても、ふとしたときに思いだし、あのときのアレはアレで良かったのか、という医療者なら誰しも経験したことがある感情の一つに捉われたり。

そうして、いつまでもまるでドラマの騒然とした映像のように
赤ちゃんに管を入れる仲間の医師の横顔がずっと残っていたり、血まみれになって大声で指示を出し続ける産科の医師の姿を思い出したり。


大多数の、穏やかで笑顔溢れる、究極に幸せな出産の影で、稀にこういうことが起こったり。
ただ静かに消えゆく命や生まれる前に眠ってしまった命のお手伝いをさせてもらっています。
私達。



それを。
ここにきて、たった一人で何度経験したかわかりません。
分娩室にナースが配属されるまでは。

突然お産への遭遇、どうしようもない死、限られた処置とたった一人で必死で目の前の小さな命への蘇生。
そのたんびに、”なにやってるんだろう”っていう気持ちになり、助からなくてはおお泣きし、何に怒っていいのかわからず。
だって、インドに来ていなかったらきっと一人っきりで遭遇することもなかったし、その映像と悲しみを一人で処理する必要もなかった。
人の死を見たくなれば、赤ちゃんの死に会いたくなければ、いますぐこんな仕事辞めればいいんです。
別に誰も文句言わない。

殺すために、助産をしているわけじゃないのになと思い。
でもどうしようもない、だってここは日本じゃないからと思い。
でもじゃあどうしてここに来たんだって思い。
ふとしたときに映像がとめどなく流れ、辛さでどうしようもなくなってしまいます。


でも、
数え切れない悲しみを、1のプラスにするために、マイナス感情をぎゅっと固めて「動機」にすることだけが現状を変えられる唯一の手段。

それでも、インドの数値の歴史には0.1の変化すらないかもしれない。
でも、インド人、いえ、友人である同僚達の心の中に残っていってほしい。

そう思いながら。




今日、病院を出る前に忘れ物を思い出して、もう一度研修の部屋へ戻った時。

もう授業は終わって次の勤務まで休んでていいのに、机に向かって一生懸命勉強している同僚の後ろ姿がありました。

笑って、
「カナ。いつでも準備はできてるからね」って言ってくれた。


ねえ、言葉も文化も違うけど、伝わってるの?



明日の1と、10年後のココの100の可能性を想って嬉し涙が出たこの気持ち、みなさんにも伝わるかな。

逆に、言葉でしか伝えられないけど。

2010-11-05

新年あけまして

今日、11月5日。
ヒンドゥー教最大のお祭り、Diwali(ディワリ、またはDeepawaliディパワリ)でした。
昨年は、10月17日。
まだデリーで研修中だった私は、インド上陸後最大の発熱を起こし、爆竹鳴り響くデリーの街中病院に向かっていたのがいい思い出です。

ヒンドゥー暦の新年を迎えるお祭りであり、何百といる神様のうち、美と幸運をつかさどる女の神様ラクシュミ―様(仏教では吉祥天)を祀る行事であります。


お昼ぐらいに、呼ばれていた仲良しの同僚の女医さんのおうちへ。

日本の新年同様、その日を迎えるまでに大掃除をし、家の外壁まで塗り替え、飾り付けをし、たくさんのモノを新調し、その日の夜にはお祈りをするのですが・・・


朝ぐるっと見渡したところ、ペンキを買ってきたばかりの人。
ペンキで外壁を塗らせている人。
飾り付けをし始めている人。
などなど、もちろん、マイペースでした。
そう。
「しないよりいいのさ、それでいい」

















とりあえず、他人様の家にお呼ばれして、勝手に水を飲んだりゴハンをごちそうになったりするインドの習慣にも、また、そのおうちにもお邪魔になりすぎて慣れてしまった私は、おひるごはんを遠慮なくいただきました。

さあて、買い物でも行くか!となったのは4時ごろで、そこから女4人、サイキルリキシャーで10分の街中へ。
いつも昼間なんてスカスカの半径2km程の街中は、花火の帰り道よりひどい混雑で、リキシャーに乗った私達は、報道陣をよける芸能人の車状態。
インドって、どんな僻地でも人だけはいる・・・


銀細工のお店に行き、装飾品の物色。
カーテンやらテーブルクロスを新調しに、足を運び。
プレゼント用のサリーを買い。
通りすがりに花を買ったり、正体不明のモノを購入しているが、突発的に買った様に見えて、後でちゃんとプジャ(お祈り)に使われているのを見て、直前の衝動買いにも目的があったことを知り。
道すがら、たくさんの知り合いに会い。(だって小さな町だから・・・)
まっだまだ、私を初めて見る人がたくさんいて、視線攻撃にあい。
今夜のプジャ(お祈り)用に服を買い。
「チャイはまだか?」と電話をかけてくる旦那さんを無視し、おばあちゃん含む女4人で6時過ぎまででかけてました。
楽しかったー。


チャイ待ちだけしてたのかと思いきや、旦那さん達もちゃんと部屋の飾り付けや、プジャ(お祈り)の準備はしてました。


そこから、ランゴーリと言って、神様を迎えるために家の玄関に色とりどりの粉で絵を描き、同時進行でプジャの準備をしていきました。
(もう、夜も更けて7時を過ぎてきてますが、神様もう来ちゃってんじゃないの?って内心思いながらお手伝い)









































ここが入り口の階段です、神様。道しるべ、見えますか?











手作り陶器の器に、ギヒーと言われるインドの油をたらし、火を灯します。
家のいたるところにそれを置き、神様を迎える準備。
たくさんの果物と、お菓子、お米、お水、ウコン、お花、神様の絵を描き、神様の像を置き、今夜の主役、ラクシュミ様とガネーシャ様をお迎えする。
正装し、裸足になる。






























家長のおじいちゃんが小さな鐘を家中に鳴らし歩き、みんなでバジャンを歌う(参:動画)。
神様に水やお米をかけたり、おじいちゃんにおでこにビンドゥー(色粉でしるし)をつけてもらったり。























暗闇の中ゆらめく炎の赤と、一斉に歌うバジャン。

人間が、”祈る” ということの意味やその本質、存在する理由やその神聖さに、心を打たれ。
なんだか泣きそうなほど感受性を刺激された、素敵なプジャでした。

大きな事件や事故もなく、健康にインドで暮らせていることをインドの神様に感謝し、あと1年無事に暮らせること願い、新年を迎えました。

都会の爆竹や花火だけが目立つ新年だけでなく、人々が心から静かに祈り迎える新年。
もちろん夜ごはんは11時に食べ終わり、家の塀に並ぶ小さな炎をみながらの帰宅となりました。


























2010-11-01

ひかり

そう、この記事「チーム出陣」で書いた、分娩室への看護師の配置がなんと先週行われたのです!
やればできるんじゃないですか!


ま、インドの、

”8月28日まで絶対夏休みの宿題をやらないが、なぜか9月1日には耳を揃えて出せてしまうワザ” や、
”うんともすんとも言わなかったのに、パエリヤ食べにスペイン行く!と思ったらもう翌日には空港にいる感じ” や、
”質問しといて、答え聞いてない感じ”

が、好きなんですけどね。
誰ですか、それはインドではなく君のことだと言ってる人は?(たぶん母)


そう、それで、ある日突然ポツンと分娩室にやってきたのです。
シフト制でまわすために、3人。


「ねえ、カナディディ。滅菌した器材って・・・」
「そう、ないの。だって、滅菌する機械を請求する紙にサインしてくれないし、第一それをする人材が、ひとりもいなかったんだから。お産取る人すらいないのに。」


「ねえ、ゴミ箱って・・・。」
「そう、ないの。まあ、あるけど、だって、みんな床に捨てるから。」


「ねえ、もしかして消毒液って・・・」
「そう、ないの。だって、盗まれるから請求しない、っていう理不尽な理由でYESって言わないし、第一ね・・・・(つづく)」



「だって、それらに気付ける人どころか、だ・れ・もいなかったのよー!!」
「そして、整えたところで1日にして無知な助手さん達に破壊されるのよー!!」



だから。
だから、あなた達が来てくれて本当に嬉しい。
と、しっぽを振り続ける私に、

「カナディディ、がんばろう!」

って言ってくれたのです。


まだ何にも始まってないけど、バンザーイ!


清潔不潔(注:医療業界の)がわかるナースがやってきてくれた、ってだけで、期待以上の人材。