Theme of the blog

晴れな人生、生き方!
それでいて、夢がちりばめられていて、ところどころで出会えるといい。
自己満足だとも思いながら、夢の一つである国際協力に踏み出す。

*用語説明*
ANM・・Auxiliary Nurse Midwife(准看護助産師) 農村部で15・6の村を対象にドクターなしで診療所を運営する。分娩から成人・子どものケアまで。

ナース・・・日本のように看護師と助産師の資格が分かれておらず、それ以上のことも行う。例)会陰切開や、縫合など

2011-04-06

一足お先に。

毎日、日本の初夏ぐらいの陽気です。
ちょうど海開きぐらいの。
まだまだ全然大丈夫です。

これから。
これから恐怖の酷暑がやってくる。

暑さと乾燥で、体が冷えるものを欲しているので、ジュースではなく果物から。

一足お先に。
すいか。











出始めのせいか、高かった!
80円。

あと旬なのは、パパイヤ、マスカット、オレンジってところです。
グァバは終わり。
これからマンゴー。

スイカを小さく切って、保存です。
そのスイカに、切ったバナナと、マスカットを混ぜて、マサラソルトをかけると、とってもおいしいんです!
すいかの代わりに、パパイヤでもいいよ。

2011-04-03

インドの鉄道

ブログのデザインをいじろうと思ったら、なんか元に戻らなくなり、気に入らないので大幅改善しようと思いながら新しい機能になっていて、めんどくさい今日です・・・

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インドは鉄道の歴史が古い。
日本の在来線の役割よりはむしろ、長距離列車がメインで、縦横無尽何千キロの世界を一日何千本と走っています。
飛行機より格段に安く基本寝台列車のため、国民の重要な足であり、広いインドでは必須であり、列車を制したものがインド旅行を制すると言っても過言ではないと思います。

そんなインドの鉄道、もともと乗り物好きな私は大好きです。
いろんなことを説明したいのですが、これ以上は「鉄子の部屋」と化してしまうので自粛します。
またの機会に・・・。
私は鉄子さんでもなんでもないですが、インドは鉄男・鉄子さんには一生分の楽しみがある気がする・・・


さて、空港がないこの町は、どこに行くにもまず電車で移動しなければなりません。
首都デリーまでは12時間、大都市ムンバイだと20時間、南のIT都市バンガロールで乗り継ぐこと36時間程度です。
2・3時間はバスの距離。
6・7時間ならかなり近い!
12時間なら、まあ普通。
24時間で行けるなら、もち電車っしょ。

な、インド国民のみなさん。
どこに行くにも電車でGO。

そんな電車に私ももう何十回乗ったかわかりません。

基本荷物が大量なインド人。
これは話すと長くなるのですが、基本的に食べ物も食器も持参しちゃうところがあるので、電車の中はすぐに家族の居間と化します。
そして、基本長い時間をともにするので、そこには様々な人間関係や人間模様が現れてきます。
これがとっても面白い。
うちの大家さん夫婦はその昔、48時間近くともにした夫婦といまでも連絡をとっておりついこないだ10年ぶりに再会を果たしたなんて言ってました。


だいたい、私の住んでる町の駅から私(外国人)が乗ってきたり、そこで降りるということがインド人の好奇心としては放っておけないらしく、必ずつっこまれます。
「あんた、一体ダモーなんかで何してるんだ?結婚したのか?」って。
で、運がいいとき(運が悪いのか・・・?)は、その後10時間近くに渡ってインド人の話し合い手になっています。

あるときは、向かいのおじいさんにつかまり、ひととおり全ての質問に答えること3時間あまり。
私が横になってうたたねしていると、
「ベター、ベター」(←子どもっていうヒンディ語だけど、目下の者への愛着を込めた呼び方です。)
って起こされて、
起きると、大量のチップスとコーヒーを用意してくれていた。
ベターのために買ったぞ、って途中の駅で買ってくれていて。
断っても何も生まれないどころか、インド人の機嫌が悪くなるので、お言葉に甘えて食べた。
すると、じいさんの奥さんが作ったお弁当があったのに、それとは別に私と自分用に車内でターリー(カレーやチャパティの定食)を注文し、そのお弁当と合わせて死ぬほど食べさせられました。
日本の地理から私の給料や家族のことまで質問ぜめにし、奢るだけ奢ったらおじいちゃんはさっさと寝て、私は深夜着なのでそのまま下車してきました。
とっても可愛がってくれたので、名前だけでも聞こうと思ったのに、
「名前なんぞ知らんでよい。じいちゃんと呼べ」と言われ、
その後じいちゃんがどこに消えたのかわからぬまま、いい思い出だけをもらいました。



またあるときは。
4人席(2段ベッドが向かい合わせ)で、3人家族と一緒になったとき。
たまたまダモー出身の新妻さんが乗り合わせており、一通り話終わった後、私が寝ていると(なんだか寝てばっかですが)、また無理やり起こされ、その家族のもってきていたおひるごはんを振る舞ってもらいました。
インド人って、食べることがとっても大事で、
「食べていきろ」っていう言葉があるぐらいなんですが、
自分だけが食事をしているという状況がどうしてもダメみたいで、電車に限らず自分が食事していて周りがしてないと必ず食べろと分けてくれたりします。
まあ状況にもよりますが、そのときも、鍋いっぱいに、容器いっぱいに持ってきたカレーなんかをつぎつぎわんこ式によそってくれました。


それでも、観光客などを狙った、飲食物に睡眠薬を混ぜて泥棒するなんていう事件があるみたいで、車内にも他人から飲食物をもらわないように、なんていう注意書きがあったりします。

インドやインド人に慣れていない人は、マネすると大変かも?
私も偉そうなことは言えませんが、かなりの場数でインド人と接して目利きは相当効いているからできるマネ?
あと、インド人の質問攻撃を上手にかわせず楽しみより疲労が倍増する人は、早いうちに寝ましょう!
気に入られると起こされるけど(笑)


でも、繰り返し。
大半の人は、とっても心優しいインドですよ。

2011-03-20

お祈り

朝と、夜。
私が住んでいるインドの町では、お祈りの歌が聞こえてきます。

普段、何かに何かを祈ることにあまり慣れていないけれど。
近くのお寺に、インド人と一緒にお祈りに行ってきました。

目を閉じて、鐘の音と空気の音に耳をすましていると、ちょっと泣きそうになったけど、泣いている場合じゃないから、

”日本が悲しみからたちあがれますように”

そう心からお祈りしてきました。


私は元気です!
生かせてもらえ、毎日笑って過してます。


みんなは、家族をこっちに呼べ呼べって、インド人らしく強引に誘ってきますが、私は日本に帰りたい。
わからないけど、被災地の人もそういう気持ちなんじゃないかな、って思いました。

どこにいても、生まれ育ったところやその仲間っていうのは、ずっと心にあるものですよね。
温度差こそあれ、私も日本人だなって思います。


今日は、インドでは春を迎える色のお祭り、ホーリーでした。
(正確には、正直、酷暑を迎えるの間違いではないかと思いますが・・・)

ハッピーホーリー☆

2011-03-15

停電パニック

なんでしょう、停電して困ること。

途上国に住んでいる方々なら日常茶飯事の、「停電」ですが、こちらも毎日8時間の計画停電なのでよく考えてみました。
幸い、突然の停電は少なく、計画的です。
国によっては、何時間も突然停電もあるのでまだマシかな、と。

困ること。
健康な私が困ることといえば、部屋の電気ぐらいですかね。
でも、わかっていれば困ることも特にない。


まず、停電する時間が決まっているので、それに向けて電気がある間に充電はします。
四六時中パソコンを使う仕事でもないので、ラッキーでしょう。
ゴハンは、鍋で炊くし。
レトルトや、冷凍食品はないから、毎日その場でその時のモノを使って食べるし。
チンはないので、残さない量を作る。
寒い時は、服を着込むし。
体を洗うお湯は、鍋で沸かして作るし。
洗濯機はない。

あと、何が困るかな。

想像してみたけど、私の想像力が及ばない。


そう思うと、東京の3時間の停電で、なぜ大量にカップラーメンとかを買いこむのかわからないのですが、きっと現場には現場の事情があるんでしょうか・・・
地震・津波にやっぱり備えているとか?
あ、IHクッキングヒーターだから、それで?
でも、その3時間以外の時に料理するってことで無理なのかな。
屋内待機を命じられているから・・・か?


そりゃ、私のいる田舎には車いすの人が登れないような建物はないし、あっても誰かが抱えてくれるつながりがあったりしますが。
在宅酸素も、呼吸器も、透析も、そんな選択肢ないから存在しないのは事実なんですけど。
そして、電気がなければ手術も何もできなくなるっていう状況が、東京の生活を維持していく現状とはかけ離れたお話なことは、

・・・・重々承知しているうえで。


やはり、健康な自分とその家族がただ生活するということだけを考えた時、3時間あまりの停電と大量の買い物を結びつけるのには、やや苦労します。



”銀行が潰れる”というウワサを聞き、潰れる前にと人々が一気に口座からお金を引き出した。

その結果。

その銀行は、本当に潰れてしまった。


有名な話ですね。


お金を引き出さなければ潰れなかったのかもしれない。


批判ではないです。
そんなこと、私も東京にいたら思いもしなかったかも。
パニックにもなってたかも。


電気がない。
ガスがない。
薬がない。
人がいない。
モノがない。
カネがない。


こんなことがあって、ありがたさわかって良かったでしょ、なんてとてもじゃないけど言えないです。
起こらない方が良かったに決まってるし、本当に悲しい事実です。

でも、そんな生活を慢性的に強いられている人々も、世界中にはたくさんいるんだってことを思い浮かべるきっかけがあれば、何か救われることもあるでしょうか。


結果論となってくるでしょうが、それぞれの優しさと想像力に期待します。

2011-03-14

2011.3.11  2:46pm

こんなときにブログに何を書こうと思ったのですが、見てくださっている方もいるので、忘れないように書いておこうと思います。

まずは、被災されている方、そして今も日本で余震とともに過している方、お見舞い申し上げます。
そして、今回の地震で命を失われた方、ご冥福をお祈りします。


事務所から緊急連絡網が回ってきたとき、リキシャーでたまたま早めに帰宅している最中でした。
「宮崎県でM8の地震があった。東京の本部とは連絡がつかない。」
というものでした。

ピンと来なかったです。
なんで、地震で緊急連絡網が回ってくるんだろう・・・って。
日本では地震なんてよくあることだという認識から無意識にそう思いました。
そして、なんで東京も連絡つかないのか?って。

すぐに帰って、大家さんちに行き、テレビをつけてもらいわかりました。

津波にどんどん流されていく町の映像を見て、
「え?これでチャンネルあってる?」って言いながら恐怖で体が震え、泣いてしまいました。

今だって、信じることができないです。
あれが日本だってこと。


毎日毎日、インドでも、世界でもトップニュース。

週末に入り、そしてそのあとデリーに出てくる予定で来たのでみんなには会えませんでしたが、
大家さんをはじめ、同僚からひっきりなしにかかってくる電話。
牛乳屋さんも、新聞屋さんも、みんなが声をかけてくれました。

”インド人で、インドにいて、こんなに無力に感じたことはない。
でも私達は、いつも日本のそばにいるよ。だから大丈夫だからね。”
”心配しないで。神様がきっと助けてくれるから。”

って。


その後すぐ、デリーに出てきたのですが。
電車の中も、デリーの街でも、会う人みんな、JAPANときけば、
”大変だね。見たよ、ニュース。両親大丈夫?”
って、見ず知らずの日本と両親を必ず心配してくれました。


今は、地震どころか被ばくの問題も勃発し、ありとあらゆるネガティブな問題で混乱していることもあるかもしれませんが、こういうときこそ優しさと想像力、思いやりで過していきたいものだと思います。

海外からで、偉そうなことは言えません。
そして、判断の余裕も無くしていることもあるかもしれません。
政府や報道、企業や警察、そして隣人や他人にまでぶつけたい怒りや苛立ちも、あるかと思います。
でも、ただ怒りをまっすぐぶつけ、不満を言うだけのエネルギーは疲労と他人への傷つき、そしてそれに対応することでロスしてしまう支援を産むだけだと思います。

一歩引いて、冷静に優しさを向けてみたいものです。


それぞれが、それぞれの立場で今できることをやることで、またいつか明るい日本に戻ることができればいいなと思います。

テレビに出てました。

”祖父母達は戦後、日本を復興した。我々も同じように日本を立て直す”

って。



日本だったらきっと大丈夫。



こんな言い方こんな時になんですが、

ついこないだまで思ってた、

”日本はもうダメかもしれない”

を、希望にかえることができたような気がします。


世界中の人が応援してくれています。

ダモーに帰ったら、インドのみんなとお寺にお祈りに行ってきます。


Twitterの画像より




2011-03-10

ナースの休憩室

今日は、15分置きにお産があって、20畳ぐらいしかない一部屋の分娩室に、30人近くの人で満パンで、外の床には、うんうん言ってる妊婦がまだ数人っていうまさに戦場でした。
(暗さと汚さが、映画に出てくる野戦病院・・・)

日本でもそうだけど、どうしてお産って、重なるんだろう。
全く来ない時は、全く来ないのに、一斉にみんな一緒に生まれにやってきます。
生命や自然の不思議さ。
で、ちなみに今日は男子デー。
そう。
なんかやたら女の子が続く時や、男の子が続く時があって。
どうして、どの地区でも、勝手に校区をバンバンって割っても、どのクラスもちゃんと男女半々ぐらいになるんだろうってものすごい不思議だったけど、生まれている現状をみてもなお不思議です。

相談しているとしか思えない。
赤ちゃん同士で。


窒息状態で、生死をさまよっている赤ちゃんもいて、今日は大変。
そんな一刻を争う中。
夜勤だったから午前は休んでていいはずの、研修のANMが分娩室に覗きにきていて。
ちょうど、そんなときに緊急事態が発生したものだから、人一倍走りまくって、蘇生やモノを取りにいったり手伝ってくれました。

村で働くANM達は、いつだってみんな純粋で明るくって、人想いで、新人の子達なんてとってもかわいい。

「カナ・ディー!もう、走りまくって疲れたよーーー。
でも私も勉強になったね!?
赤ちゃん大丈夫かなー」

なんて言いながら、そんなまっすぐな姿勢がほほえましい。

この子を含め、ほんっとーーーに純粋で、キラキラした目で、抱きついてほっぺにキスをしてきたりします。
(そういう挨拶文化のないアジアンな国ですが、田舎はとにかくみんなが小学生)


緊張と激務の仕事なので、天使などではなく、休憩室は完全に「普通のヒト」であるナースという職業ですが・・・

ラシュミーも真剣な顔で、働き、ゴハンを食べた後は、素の女の子に戻ってました。


ラシュミー。 21歳、未婚。天真爛漫。 

本当は・・・・・

超美人!




「にゃーーー」











にゃーの彼女のムービーをクリック! → ”休憩室にて”




2011-03-05

料理

料理は人柄、そしてその時の心の状態が現われるってよく言われるけど、インドでもそうだよって教えてくれました。

北に住んでいるため、南インド料理には疎く(そしてあまり好きでもない)、そこを含めては言えませんが。
数々のインド料理を食べてきて確信していること。
それは、
2階に住む大家さんの奥さんの料理がダントツ1位でおいしいということ!!

インド人には珍しく、おしとやかで、品があり、干渉しないが気にしてくれる。
なにより可愛らしい。
大家さんとしては抜群で、ここに住まいを持っているから私はインド生活をとても快適に過ごすことができていると言っても全く過言じゃありません。
インド人らしく、おしゃべり好きで、食べることが好きで、容赦なく私のお皿にわんこ式でよそってきますが、そんな彼女が私は大好き。

人の悪口は一切言わず、私の話をいつもただただ聞いてくれ、笑ってくれる。
その彼女に、来た当初はもちろんのこと、今もいつも癒されているのです。


レストランのものから、南のものまで、とにかくなんでも作れちゃう敏腕料理家の彼女。
性格がそのまま料理に現われていて、いつも主張しないが味のある、とーーーっても口当たりのいいインド料理を食べさせてくれます。

そんな彼女に料理教室を時たま開いてもらっていましたが、ここ最近忙しくて、お願いしてませんでした。
久しぶりに明日、クラス開催!ってことで、昨日メニュー決めを2人でしました。

基本の「き」の字の料理は少し習ったので、明日はちょっとおめかし料理の定番中の定番、パラクパニール(ホウレンソウとチーズのカレー)に決定。
そして、なんと!
家ではほぼ100%と言っていいほど、作られることはなく、レストランでもあまり注文されない、あのナンを作ってみようと提案してくれました。

インドなので何があって中止になるかわかりませんが、明日は一応開催予定。
楽しみ~


あと半年。
何か習って帰ってきて欲しいメニュー、リクエストあったら教えてください!
ちなみに、卵も食べないベジタリアンなので、ノンベジリクエストは受け付けられませんが・・・
ちなみに、弟子入り修行の姿勢がなってない私なので、あの味の再現はいつになるかわかりませんが・・・


先生で大家さんのアヌラーダハ・ディディ

2011-02-26

あたたかさ


私のインドへの派遣が決まる前、2人で旅行に行ったインドで体を壊し、その後オプショナル・ダイエットツアーと称して、病院に1週間入院し体重が一時的に激減した、母。

私が、ちょうど2年前。
「インドに決まった」と言うと、

「インドだけはやめなさい。インドは確かに面白かったけど、あんな思いも初めてやった国。インドじゃないところにしてください、ってJ○○Aに言いなさい。」って言ってました。

「そんなん言ったら、もう行けんくなる!行ったことないアフリカ諸国の現状も、知ってたらそう答えるやろ!」
と、心配してくれている母に電話でケンカをしたのが懐かしく、そんなこともありながら私は今インドの地を踏んでいます。


そんな母と、そのとき一緒に旅行しオプショナル看病をした父が、再びインドへ来ることになるとは神の導きとは恐ろしいもので、2週間前、北インドで最も過しやすい短い春に、私に会いにはるばるやってきてくれました。

何年ぶりかの関西への豪雪にドンピシャで、飛行機が遅れ、結局18時間ぐらいかけて首都デリーへやってきました。
3年前のギラギラした感じの途上国さ満点の汚い空港ではなく、関空のようにピカピカの新ターミナルに出てきたときにはすでに夜中の2時を過ぎていました。
そこからさらに一緒に列車で12時間南下。
草木も眠る丑三つ時、小さな町に降り立ちました。



「カナの両親がくる!」
ってんで、
他人に”ごちそうしてこそおもてなし”のインド人達は、家に呼んでくれる、呼んでくれるわで、何件もはしごし、そのたびに「インドで、お腹を下し、体重減少」の夢は壊れ、両親とも毎日お腹がパンパンになっていました。

なんとか会わせたい人には弾丸計画で会ってもらうことができ、活動場所も見学してもらうことができました。

村奥の、有名らしいジャイナ教のお寺に連れて行ってもらったときは、「ジャパン?!ファーストジャパニーズだ。」ということで、お寺中の人が寄ってきて、なぜかどんどん儀式が進んだり。













ヒンディ語と日本語の会話で、私は通訳にノドと頭が壊れそうだったけど、両親にとっても優しくしてくれ、ゴハンをたくさん作ってくれたり、プレゼントをくれたり、いろんなところに連れまわしてくれたり。
その1歩も2歩も先を読んだ、強引すぎるぐらいの気配りに、両親ともとても喜んでいました。















仲良し女医さんのお兄さんの言葉が印象的でした。


「その棚にある小さな像を見て。
その中には人々がいろんな姿で表されているでしょ?
人生にはね、喜びや悲しみ、怒りや苦しみ、いろんな体験や思いがあるけれど、一番上の3人のように、最後には周りの人と手をつないで素晴らしい人生だったってなるように、そういう風にできているものだと信じてるんだよ。

それ、お父さんへのプレゼント」


”なんて粋なプレゼントの仕方だ!”と思ったのですが、

ナイショで可愛いバッグを用意してもらっていた母も、もう良くしてもらいすぎて訳が分からなくなっていた父も、
「なんて言ったら良いのよら、本当にありがとうございます」と言ったとき。


そのお兄さんは、感謝しつづける私達に諭すように言いました。



「良く聞いて、カナ。そして訳してほしい。
両親という存在は、世の中で一番、一番大切なものなんだ。
神様よりも、何よりも。
カナと私達が出会ったことは素晴らしい。そしてそのカナを産みだしてくれた両親は、私達にとっても大切な存在だ。
それはインドでは極当たり前のこと。
だから、誰かの両親に敬意を払ったり、その人達を大切に思うってことは、とても自然で当たり前のことなんだよ」

って。



これからきっと大きく変わりゆくインドだろうけど、日本のように、豊かさを代償に本当に大切なものを失わないでいてほしい。

大家族であるしがらみや、自由さに欠ける環境もあるだろうけど、目の前の私利私欲や名誉や財産に、大事な気持ちを失ってしまわない国でいてほしい。


”インドでは人を信じちゃいけない!”
なんて、旅行記や体験記によく書かれていますが。

どこぞの国やらわからない国からやってきた誰かに、ここまで優しくしてくれるのも、またインド人。

「だましている人がいる横で、こうやってそれを補うように生きている人がたくさんいるような気がする」って母親が言っていました。

どちらもリアルなインドですが、情報は自分が取り、分析するものであり、情報に足を取られたり踊らされたりするものであってはならないと思っています。いつも。



同じ部屋で3人で1週間も寝ることなんて、弟が生まれるまで以来じゃないか、と思うほど久しぶりだったけど、とっても楽しかった。
私も敬意を払える、素直な子でいなければ、とインドに学んだ1週間でした。



いつも、可愛い子に旅をさせてくれる、そして健康で過してくれている両親に感謝しています。















2011-02-06

目の前を生きる

知り合いの家でくつろいでた時、何度か顔は合わせている食器洗い係のおばあちゃんと話す機会がありました。



おばあちゃん:「どこの村からきたの?」

私:「ニホンって言って、遠いところ。違う国だよ。」

おばあちゃん:「ダモーのどの辺?」

私:「ええっと・・・・。ダモーじゃないよ?ダモーの外。」

おばあちゃん:「ボパール?(ここから電車で7時間の州都)」

私:「いや、ボパールよりずっと遠いの。インドじゃないんだよ? インドの外!違う国なの。」



それを横で聞いていた、おばあちゃんの雇い主であるその知り合いが言いました。



「彼女はね、インドに住んでるってこと、知らないんだよ。
インドという存在を知らないし、インドが国だっていうことも、”国”っていう概念も知らないの。
ダモーから出たことなくって、彼女の生活は生まれてからずっとダモーの中で、目の前の食器を洗って、目の前の子どもを養って、食べて生きてきてるの。
自分がインド人だとか、インドという国があるとか、インド以外にどんな国があるとか、そんなこときっと関係ないというか、想像できないんだろうね。」


”生きる” のに、必要なことは、人それぞれなんだろうけど、”生きている”ことにはみんな変わりないんだろうなと思います。



私達の話を、くしゃーっとした笑顔で聞きながらうなずき、

「さ、洗ってきますね」と、サリ―をまくしあげた細すぎる体で家の奥に入っていきました。

2011-02-01

醍醐味

よくあるのですが、朝、迎えにくるリキシャーが来ない。
サボってるのか、ボケてるのか。

なので、そこらへんを走ってるリキシャーを捕まえて、病院まで行きました。

途中で、

「おっきい病院まで」

って、言う女性が私の乗っているリキシャーをとめました。

リキシャーはそこらへんにいるし、そんなに相乗りになる機会はないのですが、どうやらずっと待ってたらしいその女性。
私もその ”おっきい病院” まで行くのだから、別に全然問題なし。

小さな赤ちゃんを抱いて、小さな男の子の手を引いた彼女がひょいと乗り込みながら私の顔をみて、

「あ!」ってにこやかに笑いました。


多分、この女性の身なりからして、”患者さんか何かで私を見たことあるんだろうなー”ぐらいに思って私も会釈。

そしたら、
「3か月になったの。あなたにとりあげてもらったんだよ。覚えてる?」って。


日々分娩室がごった返すほど、わんこ式になるほど、生まれているのでよっぽどでない限り覚えていないし、研修生や学生に教えながら手を添える役なので、直接とりあげることは緊急時以外はほぼないし、こちらは全く覚えていません。

でも、この言葉とあの笑顔と、その後の元気な赤ちゃんが、私、助産師にとっては一番の喜び。

こっちが覚えてなくっても、そういう風に声をかけてくれるっていうのは、そのときのお互いの関係への働きかけが間違ってなかったってことなんだなって思って嬉しかったです。


「予防接種しにいくの。2カ月目にって言われてたけど忙しくて3ヶ月目になっちゃった。怒られるかな?」
「何時まで病院いるの?何してるの?教えてるの?」

とかいろいろ誰かと話ながら通勤するのも楽しいもんでした。

母に抱かれた女の子のやわらかい足が、狭いリキシャーで、ずっと私の太ももにひっついていて、その温かさは胸がきゅーんっとなるほど可愛かったです。


リキシャーを降りて、中へ。

分娩室の前を初め、いつも病院の廊下は患者やその家族が床に座り込んでゴハン食べてたり、チャイ作ってたり(!)、もうごった返していて、歩くのに人を避けないといけないような病院です。
そこを歩いていると、私を見てニターーーっと笑うおばあちゃん一人。

”外人珍しいのかなー”って思ってると、その横に座る若い女の子が、「待ってディディ!」と私に向かって言いました。

その顔を見て納得。

昨日血圧が高く、要注意の中初産で赤ちゃんを産んだお母さんでした。
学生と一緒にお産をとったんだけど、どうやら覚えていてくれたらしい。

「ディディにね、会いたいって思ってた!昨日はありがとう」

って。
3kg越えのしっかりした女の子は、可愛い服を着せてもらって日光浴してました。
彼女の笑顔を前に、ぷくぷくのほっぺたをツンツンってしながら、

”また一人の人生が始まったんだなあ”って思って、

なんとも言えない至福を味わいました。



この仕事の、素敵なところ。