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晴れな人生、生き方!
それでいて、夢がちりばめられていて、ところどころで出会えるといい。
自己満足だとも思いながら、夢の一つである国際協力に踏み出す。

*用語説明*
ANM・・Auxiliary Nurse Midwife(准看護助産師) 農村部で15・6の村を対象にドクターなしで診療所を運営する。分娩から成人・子どものケアまで。

ナース・・・日本のように看護師と助産師の資格が分かれておらず、それ以上のことも行う。例)会陰切開や、縫合など

2010-12-26

あああああ

「あ」っと言う間に、今年が終わりそうです。
このままいくと、もう記事を書く時間もないので、これで今年は最後になってしまうと思います。
みなさまいかがお過ごしですか。


さて何がそんなに忙しかった、いえ忙しいのかと言いますと。
2カ月程前から、ここ「ひかり」で書いたナースに私はしっぽを振りつつ、本格的に県病院の産科の大革命にとりかかりました。

彼女達にまず優先的に助産の研修を受けさせてくれた配属先に感謝し、その研修(いつも病院で行っているもの)につきっきりで(いつもつきっきりですが)、指導に精を込めました。

彼女達には、
「このトレーニングが終わったら、一緒に大変化を起こそうね」と洗脳し、
いつも支えてくれていたけど協力者と時間があまりに少なかった女医さんには、
「スタート切るときは、あなたの協力なしでは無理なの。お願い力を貸してほしい」と懇願し、
その傍ら、血圧計の一つもなく分娩台だけがボーンと置かれた分娩室を、まずは“分娩室”とするために、今一度ひとりで物品の総チェック。
ずっと棚のカギを握って離さなかった産科のボスも、分娩室専用のナースの配属とくればお手上げで、鍵はもう私達のものに!

今あるものは何で、何がないか。
一度請求すればそれで済むものと、毎月請求しなければならない消耗品は何か。
毎月の消耗品は1カ月あたりのお産につき、どの程度の数があれば不足せずに済むか。
物品リスト作りから。
(これ、日本で嫌々数年やってた物品係ってやつが、本当に役に立ちました。あの時の環境に感謝)
ナースと一緒に何度も修正をかけながら、重箱の隅をつつくようにモレのないようリスト作り。


さて、どの物品はどの部署の誰に頼むのか。
どの薬品は政府からの供給があって、どの薬品は患者さんに店から買ってきてもらうものなのか。
そう広くはない院内の、今まで行ったこともない部署に、新参で肩書きがない者が行っても一筋縄ではいかないインドをよく知っているので、初回は女医さんを引き連れて、そしてその後は自分一人でも、ナースを連れてでも何度も請求しに行けるように顔ツーツーローラー作戦に出たわけです。


と、まあここらへんまで来たときに、なんと政府の保健計画の評価のために、各州から1県選んで視察するというイベントが浮上。
そしてなんとこのMP州ではダモー県が選ばれたのです。
さて。
こんなチャンスがあれば、お金とヒトが動くのはもう簡単なのが権力大国途上国。
サーフボードも買って、スーツも着こみ、早起きして、準備体操もしていた私達は、大きなウェーブに乗ることができたのです。


なぜ今までできなかった?と首をかしげるぐらいに一気にモノが揃いました。
もちろん、ああでもないこうでもない、いやアレも必要、やっぱりこれはいらないとか言いつつ。
インドはなんでも1度では無理なので、何回も”足を運んで”、「こないだ言ってた○○まだ届かない?」と催促に苦労。
しつこい方が勝てる国。催促勝ちしながら一つずつゲットです。


お産を取り扱う場所なので、2・3日閉めて一気に片付けてキレイにしてまた再開ってことができないんですね。
新しい物品を置きながら、片づけながら、モノの配置を決めながら、分娩ベッドを入れ替えながらも数時間置きにはお産が横で起こっています。
だから、とっても難しい。
とりあえず新しいものは一気に変えて、一気にスタートを切らないとだめだったので大変でした。

モノがそろったら、それを誰の責任で管理するか、誰に何をしてもらうかってことが次の課題になります。
消毒液の入れ替えや滅菌は、助手さんだけど、滅菌後の分娩機材をセットするのはナースにしよう。とか。

でも、そんな姿を見ていてくれてか見ていなくてか、まあそんなことはどうかよくわかりませんが、助手さんやスイーパー(お掃除の人)が、本当に協力してくれました。
10数年っていう勤務歴のみんなが、何か聞いてくれたり、一緒に働いてくれたことはとっても嬉しいことの一つでした。
実際に、全てパック済みの使い捨てだった日本の臨床とは違い、ガーゼは小さくきって、コットンでパットも作って、滅菌も自分達でやって、っていうそういう日本も昔やってたことは、彼女達の方がとてもよく知ってます。
そういうわからないことは、素直に聞いて、そうやってお互いの得意分野を合わせながら損得勘定なく一つのことをよくしていこうという気持ちが起こったのは今回の一番の収穫だったんだと思います。


私は、この仕事だけしてればいいかもしれないけど、ナースもスイーパー達も、自分達の本来の業務をしながら、この仕事をしていました。
だから、一番頑張ってくれているナースのシャンティ(名前)なんかは、
「なんか私達だけ頑張っててフラストレーションたまるわ。せっかく決まり事を決めても、あっちやこっちやらで全然違うことしてるしさー。もう!」
って、なったときもありました。
でもそういうときこそ、私の仕事だと思いました。
孤独感から救うこと。
必ずいつも味方だということを示すこと。
私もそうやって女医さんに支えられていたから、ずっと気持ちを持ち続けられたし。
「私だって、シャンティがいないとできないんだよ?」って。
そうやって、ジャレビ(お菓子の一種)を奢ったりして、また次の日に倉庫へ行ったり。

こんなことに辿りつくまでに1年かかったのか?
って、ふと頭をよぎりましたが、初期では絶対できなかったこと。
だって、人間関係があって、縦関係をちゃんと把握して、私がやっても無視されない私の存在を認めてもらい始めて、そして言葉ができる。
だからやっぱり、今じゃないとできなかったと思います。

そんなこんなで、お金はいまならいくらでも出してもらえる!って思った私達は、ペンキまで塗り替えさせて、見た目はなんとも見違えるほどの分娩室にしあげました。
何かの感覚に似てるな、って思ったら、文化祭の準備でした。
ああいう共同作業の達成感・・・・

さて、これからです。
始まったばかり。
”維持”が一番難しいんだから。

目に見えるところは変わりました。
目に見えない、看護の仕方やケア、モチベーションや、コミュニケーション。
そういうものへの働きかけが、もっとも重要なところです。

それに加えて、今フィールド(郊外)で働く看護職対象にニュースレターを作成中。
これについてはまた今度。


ゼロだったものを1にするのが一番の苦労。
1さえくれば10になる、って尊敬する専門家の方が言ってました。

私たちは、やっと1になったとこ。

それでも、something is better than nothing ですね。


「やってだめなら、また変えればいい。」
一見、無責任にも聞こえますが、何にもやらなかった人よりずっといいですよ。
たった1部屋変えるだけでも大変なんだから、大阪府を変えようって頑張ってくれてる橋下さんには頭が下がります。


そんな、こともあろうことか知事に共感している、インドの片隅の一助産師です。

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1年まるまるインド2010年が終わりを迎えます。
いつも読んで応援してくださってるみなさん、ありがとうございます。
みなさん、よいお年をお迎えくださいね。

次の更新は年内が無理だったら、新年とさせていただきます。

2010-11-29

Photoシリーズ ① あかちゃん

写真だけの記事ってのもいいかな、と。

まずはやっぱり。
職業柄、世界共通で愛くるしい赤ちゃんたちを。

生まれて5分。













「インド人も、生まれたときは白いのよ?」



生まれて15分。
「ここどこ~~~?? 怖い・・・ぅぅ・・・」



















男の子と女の子。
私達、双子。













赤ちゃんでも、もう、鼻高い・・・



目の周りを黒くするのは、魔除け。

















あんまり可愛いとあっちの世界に連れていかれちゃうから・・・だそう。




「・・・・・」














「あんた、誰なん?」





Baby ・・・ シシュー
Child ・・・ バッチャー

2010-11-25

マイナス感情をプラスへ

現代の日本では、99%の人がお産のときになんらかの施設と言われる家ではない場所で赤ちゃんを産んでいます。
詳しい話は今回はしません。
が、つまり日本のお産の大抵の場合、正常なお産でさえ少なくとも2人の介助によりお産を支えています。

そして突然、”正常”から”異常”に変わることがある産科は、お母さんや赤ちゃんに何かあったら総出の人数を必要とします。
命も2つなので、それなりの人数が。
産科救急の世界は、救急と同じく一刻を争い、そして最大の幸せが最大の不幸へと移りゆく可能性の間の時間を通りぬけるので、特殊な感情と映像が行き交っている世界のような気がします。


指示を出す人。
指示された物品や血を運ぶ人。
注射をどんどん開封していく人。
それを吸いあげ投与していく人。
状態を観察する人。
他科に連絡する人。
オペの準備に備える人。
起こっている事実を分単位で記録していく人。
封を切られた様々なモノのゴミを片付けていく人。
茫然とたちつくす旦那さんを気遣う人。
人手がとられてそこだけにスタッフが集中している間に残された他の患者さんを気遣う人。

チームワークと、スピード、急いでいても失敗は許されず、適切な処置と心のケアを必要とされ。
赤ちゃんが生まれていれば赤ちゃんを同時にケアし、生まれていなければもっと大変で。

とにかく、お産という現場に慣れている私達でさえ、緊張感が心臓を突き破るのではないかと思うほどの空気が流れ、そして2時間が2分ぐらいにしか感じられないスピードと、終わった後の雑然とした部屋の汚れと疲労感が残ります。

普段は忘れていても、ふとしたときに思いだし、あのときのアレはアレで良かったのか、という医療者なら誰しも経験したことがある感情の一つに捉われたり。

そうして、いつまでもまるでドラマの騒然とした映像のように
赤ちゃんに管を入れる仲間の医師の横顔がずっと残っていたり、血まみれになって大声で指示を出し続ける産科の医師の姿を思い出したり。


大多数の、穏やかで笑顔溢れる、究極に幸せな出産の影で、稀にこういうことが起こったり。
ただ静かに消えゆく命や生まれる前に眠ってしまった命のお手伝いをさせてもらっています。
私達。



それを。
ここにきて、たった一人で何度経験したかわかりません。
分娩室にナースが配属されるまでは。

突然お産への遭遇、どうしようもない死、限られた処置とたった一人で必死で目の前の小さな命への蘇生。
そのたんびに、”なにやってるんだろう”っていう気持ちになり、助からなくてはおお泣きし、何に怒っていいのかわからず。
だって、インドに来ていなかったらきっと一人っきりで遭遇することもなかったし、その映像と悲しみを一人で処理する必要もなかった。
人の死を見たくなれば、赤ちゃんの死に会いたくなければ、いますぐこんな仕事辞めればいいんです。
別に誰も文句言わない。

殺すために、助産をしているわけじゃないのになと思い。
でもどうしようもない、だってここは日本じゃないからと思い。
でもじゃあどうしてここに来たんだって思い。
ふとしたときに映像がとめどなく流れ、辛さでどうしようもなくなってしまいます。


でも、
数え切れない悲しみを、1のプラスにするために、マイナス感情をぎゅっと固めて「動機」にすることだけが現状を変えられる唯一の手段。

それでも、インドの数値の歴史には0.1の変化すらないかもしれない。
でも、インド人、いえ、友人である同僚達の心の中に残っていってほしい。

そう思いながら。




今日、病院を出る前に忘れ物を思い出して、もう一度研修の部屋へ戻った時。

もう授業は終わって次の勤務まで休んでていいのに、机に向かって一生懸命勉強している同僚の後ろ姿がありました。

笑って、
「カナ。いつでも準備はできてるからね」って言ってくれた。


ねえ、言葉も文化も違うけど、伝わってるの?



明日の1と、10年後のココの100の可能性を想って嬉し涙が出たこの気持ち、みなさんにも伝わるかな。

逆に、言葉でしか伝えられないけど。

2010-11-05

新年あけまして

今日、11月5日。
ヒンドゥー教最大のお祭り、Diwali(ディワリ、またはDeepawaliディパワリ)でした。
昨年は、10月17日。
まだデリーで研修中だった私は、インド上陸後最大の発熱を起こし、爆竹鳴り響くデリーの街中病院に向かっていたのがいい思い出です。

ヒンドゥー暦の新年を迎えるお祭りであり、何百といる神様のうち、美と幸運をつかさどる女の神様ラクシュミ―様(仏教では吉祥天)を祀る行事であります。


お昼ぐらいに、呼ばれていた仲良しの同僚の女医さんのおうちへ。

日本の新年同様、その日を迎えるまでに大掃除をし、家の外壁まで塗り替え、飾り付けをし、たくさんのモノを新調し、その日の夜にはお祈りをするのですが・・・


朝ぐるっと見渡したところ、ペンキを買ってきたばかりの人。
ペンキで外壁を塗らせている人。
飾り付けをし始めている人。
などなど、もちろん、マイペースでした。
そう。
「しないよりいいのさ、それでいい」

















とりあえず、他人様の家にお呼ばれして、勝手に水を飲んだりゴハンをごちそうになったりするインドの習慣にも、また、そのおうちにもお邪魔になりすぎて慣れてしまった私は、おひるごはんを遠慮なくいただきました。

さあて、買い物でも行くか!となったのは4時ごろで、そこから女4人、サイキルリキシャーで10分の街中へ。
いつも昼間なんてスカスカの半径2km程の街中は、花火の帰り道よりひどい混雑で、リキシャーに乗った私達は、報道陣をよける芸能人の車状態。
インドって、どんな僻地でも人だけはいる・・・


銀細工のお店に行き、装飾品の物色。
カーテンやらテーブルクロスを新調しに、足を運び。
プレゼント用のサリーを買い。
通りすがりに花を買ったり、正体不明のモノを購入しているが、突発的に買った様に見えて、後でちゃんとプジャ(お祈り)に使われているのを見て、直前の衝動買いにも目的があったことを知り。
道すがら、たくさんの知り合いに会い。(だって小さな町だから・・・)
まっだまだ、私を初めて見る人がたくさんいて、視線攻撃にあい。
今夜のプジャ(お祈り)用に服を買い。
「チャイはまだか?」と電話をかけてくる旦那さんを無視し、おばあちゃん含む女4人で6時過ぎまででかけてました。
楽しかったー。


チャイ待ちだけしてたのかと思いきや、旦那さん達もちゃんと部屋の飾り付けや、プジャ(お祈り)の準備はしてました。


そこから、ランゴーリと言って、神様を迎えるために家の玄関に色とりどりの粉で絵を描き、同時進行でプジャの準備をしていきました。
(もう、夜も更けて7時を過ぎてきてますが、神様もう来ちゃってんじゃないの?って内心思いながらお手伝い)









































ここが入り口の階段です、神様。道しるべ、見えますか?











手作り陶器の器に、ギヒーと言われるインドの油をたらし、火を灯します。
家のいたるところにそれを置き、神様を迎える準備。
たくさんの果物と、お菓子、お米、お水、ウコン、お花、神様の絵を描き、神様の像を置き、今夜の主役、ラクシュミ様とガネーシャ様をお迎えする。
正装し、裸足になる。






























家長のおじいちゃんが小さな鐘を家中に鳴らし歩き、みんなでバジャンを歌う(参:動画)。
神様に水やお米をかけたり、おじいちゃんにおでこにビンドゥー(色粉でしるし)をつけてもらったり。























暗闇の中ゆらめく炎の赤と、一斉に歌うバジャン。

人間が、”祈る” ということの意味やその本質、存在する理由やその神聖さに、心を打たれ。
なんだか泣きそうなほど感受性を刺激された、素敵なプジャでした。

大きな事件や事故もなく、健康にインドで暮らせていることをインドの神様に感謝し、あと1年無事に暮らせること願い、新年を迎えました。

都会の爆竹や花火だけが目立つ新年だけでなく、人々が心から静かに祈り迎える新年。
もちろん夜ごはんは11時に食べ終わり、家の塀に並ぶ小さな炎をみながらの帰宅となりました。


























2010-11-01

ひかり

そう、この記事「チーム出陣」で書いた、分娩室への看護師の配置がなんと先週行われたのです!
やればできるんじゃないですか!


ま、インドの、

”8月28日まで絶対夏休みの宿題をやらないが、なぜか9月1日には耳を揃えて出せてしまうワザ” や、
”うんともすんとも言わなかったのに、パエリヤ食べにスペイン行く!と思ったらもう翌日には空港にいる感じ” や、
”質問しといて、答え聞いてない感じ”

が、好きなんですけどね。
誰ですか、それはインドではなく君のことだと言ってる人は?(たぶん母)


そう、それで、ある日突然ポツンと分娩室にやってきたのです。
シフト制でまわすために、3人。


「ねえ、カナディディ。滅菌した器材って・・・」
「そう、ないの。だって、滅菌する機械を請求する紙にサインしてくれないし、第一それをする人材が、ひとりもいなかったんだから。お産取る人すらいないのに。」


「ねえ、ゴミ箱って・・・。」
「そう、ないの。まあ、あるけど、だって、みんな床に捨てるから。」


「ねえ、もしかして消毒液って・・・」
「そう、ないの。だって、盗まれるから請求しない、っていう理不尽な理由でYESって言わないし、第一ね・・・・(つづく)」



「だって、それらに気付ける人どころか、だ・れ・もいなかったのよー!!」
「そして、整えたところで1日にして無知な助手さん達に破壊されるのよー!!」



だから。
だから、あなた達が来てくれて本当に嬉しい。
と、しっぽを振り続ける私に、

「カナディディ、がんばろう!」

って言ってくれたのです。


まだ何にも始まってないけど、バンザーイ!


清潔不潔(注:医療業界の)がわかるナースがやってきてくれた、ってだけで、期待以上の人材。

2010-10-30

言葉

インドは、16の主要言語があって、文字もガラっと変わるぐらい地域によって言葉が違います。
一応、英語とヒンディー語が主要公用語で、全部では2000を超える言語が存在するインド。

現代はまだまだイギリス統治時代の影響が残っており、英語の単語が頻繁に使用されている、または英語がたくさん話されています。

もちろん南北の人が話すときは、英語になるし、初対面や公式の場は英語だったりします。

中流以上になると、政府のヒンディー語学校ではなく、English medium と言って、私立のヒンディー語の授業以外全て英語で行われる学校へ進学します。

学校は英語、家はヒンディー語、読むのは英語の方が早い、頭ではどっちも考える・・・・などなど。

デリーやムンバイなど、メトロポリタンシティになると、英語を母語として育つ若者は増加中であり、テレビ番組でさえ、ヒンディー語と英語がごっちゃまぜのことがあります。

”I think こっちのほうがいいと思う。Isn't it? "
”私思うのよ・・・you are so 優しい!”

みたいな・・・ルー○柴さんもついていけない感じで。

で、本人達ももう全然わかってない。
途中で英語とヒンディー語が入れ替わり立ち替わりしていることに。

これ都会の話です。
ただ、全国的に、英語話せる=ステータス ですね。



さて。
私の任地、田舎では。

もちろん、English Medium も存在しますし、ある一定以上の教育を受けている人は、英語を操ります。
でもたいてい若者だし、貧困層が多いこの地域では多数派ではありません。

ただですね、日本人も外来語が多いように、たとえ田舎でも外来語はたくさん。
しかし、患者である下層の人や村の人はその簡単な外来語すら知らないので、そこはヒンディー語を知っていないといけません。

つまり何が言いたいのかというと。

そうやって、若者と話すときに、
例えば日本語でいうと、

スプーンを さじ と言う人はもうあまりいないし、
ティッシュを ちり紙 と言う人もいないし、
ネックレスを 首飾り と言ったり、
トイレを 厠 と言ったりしませんよね。

それは、名詞だけに限らず、

フレンドリーな人だ!とか、
ま、Anyway、それはEasyじゃないProblemだよね。とか、

都会よりやや大人しめのルーさんになってくるのです。


でも、村の人や患者さんは、トイレを厠と言ってあげないとわからなかったり、逆に彼女達が話している単語を知っていないといけない。
12月は師走と言わないと通じない、と言った具合です。
ちなみに、村の方々は方言がひどいので、そちらのリスニングはいまだ困難。



で、そうしているうちにたまに私はわけがわからなくなって、いまどきの女の子を相手に、たとえばの話、

「そのさじ、誰の?」

とか、言ってしまい

「あーははは!!”さじ”だって!! (爆笑)」

みたいな事態になってしまう・・・。


外国人が言うと、もっと面白いんでしょうね。


言葉は生きているので、変化し続けるんでしょう。
英語とヒンディー語と、方言と時間軸の間で、アラサーの頭はたまに疲弊してしまうのでした。

2010-10-25

つづく つづく

”胎児”って呼ばれている間、つまりお母さんのおなかの中にいる間の赤ちゃん、私達助産師をはじめとする産科の人達は、そのお腹を通じて赤ちゃんの心臓の音を聞かせてもらいます。
簡単にいうと、元気かどうか確かめるために。


大人の脈の倍ぐらいの速さで、

”ドクドクドクドクドクドクドクドク・・・・・”

って聞こえてきます。


日本ではもう機械が浸透しているので、電気で動くその機械をお腹にあてるとスピーカーから聞こえてくるんですね。
でも、ここにはまだそれがないからお腹に聴診器をあてるか、トラウベっていう小さなメガホンみたいなものをお腹にあててそこに耳をあてて直接聴きます。


仕事の中でもベスト5ぐらいに入るぐらい、この診察が好きです。
(あとは赤ちゃんの頭が見え隠れしてるときとか・・・マニアックな部類ですね)

聴いて、
”ヒトの中にヒトがいる!”

って思うと感動してアドレナリンがバーーーッて出て、顔がにやける。
助産師何年目ですか、って話ですが。
もちろん、診察して血の気が引くときもあるのがこの世界の影の部分ですが。


それで。
大人の手首に指をあてた時、自分の脈を自分で手首でとった時、いっつも思います。

”あの音を鳴らし始めてから、私の体の中でもずっと動いてるんやな、休まずに。あと何十年もずっと休まず動くんやろうか。死ぬそのときまで、動くのか。”

って。

そう思うと感慨深くって、じーんとします。

”まだ動いてる。あ、まだ動いてる。”

って、当たり前だけど脈をとり続けてみたり。


みんなの心臓もそうであるように。

また一人、お友達に子どもが生まれたって。
帰る頃には1歳ですが、もうすでに1年弱ドクドクいってこの世に出てきたから、一体何歳とするのがいいのかわからないけど(!)
朗報をいただき、ふと普段思っていることを思いだして書いてみました。


水と皮膚を通して聴こえてくるドクドク・・・は、自分が水の中にいるような錯覚に陥るし、目をつむるとそこは小さな宇宙です。

私達がこの世からいなくなっても、その子の心臓は動いていくし、その次の子もまた動いていって、この世からあの音がなくなることはないんだろうと思います。


人類が続く限り、ね。

2010-10-15

チーム出陣

今まで書いてきた通り、私が主に行ってるこの県病院。
人がほんっといない。
いえ、人が少ないのに比べて、患者が圧倒的に多すぎるともいうか。

1人のお産にだって、母子ともに何かあった時のことを考えると2人は居た方がいいし。
2人同時にお産になったって、1人じゃどうにもならないのに。
5人同時、いえベッドすら足りないのでお産後すぐ患者交代、いえ分娩室まで間に合わず外で、なんて状況なんです。
なのに、常々10人ぐらい控えてる産婦に加えて、帝王切開後の人、普通に産後の人は40人ぐらいいる。
その全てにあてがわれているのは、たった、たった1人のナース。

これはあんまりだと思うのですが、きっとこの1人のナースが全力を出せば?
いえ、私がそのナースなら死んでしまうと思います。
そうするとどうなるのか。
0か1ではなく、0か100なら0を選ぶということで、まったく仕事をしなくなってしまう。
病棟にいるか、分娩室に行くか・・・?
あの人もこの人もいて、あの人もこの人も話しかけてくるし、だいいちお産なんてほっときゃ勝手に生まれて、ほっときゃ勝手に死ぬんだよ。ああめんどくさい、チャイ飲も。ってなるんでしょう、多分。

そう。
管理やら、技術やらうんぬんの前に、それを伝えられる人を置いてくれ!
っていうのがみんなの、そして私の一番の願い。
結局研修にきているANMの2人がコキつかわれ、なんのための研修やら、ってな話なのですから。
ついでに、自宅分娩を超える劣悪な環境ときたら、なんのための施設分娩なんだってな話ですから。


院長が変わって半年ほど。
常々ずっと温めてきた、そして諦めてきた、しかし私は懲りずにうるさかったこの問題に乗り出す姿勢を見せ始めた私の同僚達。
女医さん2人、看護師1人と作戦を練り、院長のもとに直談判に行きました。
リーダーの女医さんが代表で上手にお話。
ついに、ついに、ついについに!!!
分娩室だけの配属の看護師を置いてもらえることになりました!!

インドだから、それがすぐ明日ってわけにはいかないことは重々承知です。
でも、今回はきっと嘘には終わらないということがわかったこと、そしてなによりそんな風に

『自分達の働く環境のことを、自分達で考えて、自分達から動きたいから一緒に作戦を立てようと言いだしてくれたこと』

それがなにより嬉しかったのです。

こういうのは、当たり前のことだけど、でも1人じゃできない。
何人か同じような考えを持って、そしてタイミングをみて一気に動かないといけない。
そしてその同じような考えを持つまでに果てしない時間がかかったり、タイミングがことごとく悪いのが途上国。
でも、それが一歩踏み出せたなら、きっとヨソモノがいなくってもゆっくりその後も歩んでいけるのだと思います。


必要だと自分達が感じること。
進まないとと、自分達が心から思うこと。

禁煙や禁酒や、糖尿病コントロールや、ダイエットや、失恋や、挫折や、失職や。
そういうのと一緒で、おかれた環境で自覚症状がない場合、ある場合、どちらにしてもその症状を次のステップに自分が持っていくのは大変なことだと思います。

でも、作戦を練っていたときの真剣だけど、力を寄せ合って話す姿勢と表情に、うまくいくといいなという希望がもてました。

小さなことだけど、一歩一歩です。

2010-10-09

ゴールはなし

「サンギーーターー!! あ゛ぁ゛ーーーー!!おい!起きろよー!ぅわーーーーー」
泣き崩れた男の人。わーーーーーーーわーーーーーーと叫んでいました。
まるでドラマのように。

すやすやと眠る小さな赤ちゃんの横に、意識不明、こん睡状態のお母さんが、朝の分娩室に。



妊娠とは、貧血傾向になりやすく、分娩は出血を伴います。
一説には男性がそれぐらいの出血をしたら死んでしまうかもしれないぐらいの出血をしても女性は生き抜くとか。

マラリア、デング熱にかかっていた彼女。
どちらの病気も貧血を助長し、出血をとめる力も失います。

来たときには、鼻、耳、口からも出血。
口角からは泡をふき、瞳孔は散大。
意識はもちろんなく、呼吸はいびきのよう。
なけなしの輸血と、限界のある鼻からの酸素投与。
その酸素ボンベだってちゃんと動いているのやらどうやら。

何もしようがないこの病院にいても仕方がない。
車の工面、人の工面、医師が来るまで待っての診察、そんなこんなで朝方5時にきた彼女が、大学病院に向け出発しのは朝の10時を過ぎていました。

ここから、あぜ道を3時間半かかるというのに。
酸素もなく、向かいます。
誰もが信じて祈っていたのだろうけど、でもこの後回復することはないというのに。


妊婦健診を受けようと思わなかったかもしれない、受けていたかもしれない、そんなのあるって知らなかったかも。
健診したって、何かあって搬送されてくるのに何時間もかかる。
1台しかない救急車が出払っていたら、4輪なんて持ってない、バイクすら持ってない人は誰に頼む?
マラリアやデングにかかろうとしてるわけじゃないけど、蚊はたくさんいる。
扇風機がないところで、戸をあけないと暑い。
網戸をはるようなお金がないとしたら。
水道がなければ、井戸から汲んだ水を張って貯めておくしかない。
蚊が増殖しようが、蚊取り線香をいちいち24時間つけておく知識もお金もないかも。
虫よけを一本買うお金で、きっとじゃがいも1カ月分は買える。
蚊帳で寝る贅沢。
一人に一つベッドがある贅沢。
自分の家だけよくたって、道路はでこぼこ、水はたまる。
そして病気になったところで、受診行動をとれるのか。
お産とそういうことが結びつくってことをどこで知ればいいのか。
搬送されてきたって、何もない。
人もない、モノもない。
そこからさらに行くまちに、誰が、どうやってついていき、誰がお金を出し、誰が道中見守れる?
助かったところで、大学病院に持続的なお金、払えるの?


何が原因で、彼女は死ぬの?


医療の不備?貧困?道路の不備?教育?慣習?
どれか一つ、いや全部解決すればそこが世界平和のゴールですか?
そういうこと、現地に来る前に、”国際協力ってなんだろう”って、よくそういう仲間でセミナー開いたり語り合ったりしたな、って思いだしました。

そう、実際、医療ができることなんて、ほんの一握り。
でも医療 ”も” ないとダメなんです。


なぜ事が思うように運ぶ場所や国は、なぜ事が思うように運ぶのか?
気付かないところで、気にもとめないところがちゃんと整っているからだと思います。

”マラリアやデングは、蚊で感染しちゃうんだよ”ってもし日本の町に書いてあったら、日本人なら誰でも読める。
たとえば、そういうこと。



決して取り乱すようなことを、なかなかしないインド人。
そんな中でも男の人が叫び号泣する姿みているのは、とても直視できませんでした。


私と同い年、28歳のお母さんでした。
初めての子を横に。

2010-10-06

立ち止まった時、感じることは

疲れ切った顔を横にむけて、そっとキスをする。
”はじめまして” の挨拶に、涙を流しながら。


子どもを必死で守ろうとする娘をそっと抱く、母の母。
「仕方ないのよ」と泣きながら。


悲鳴のような声を重ねて、すでに亡くなっている子を一生懸命産んだ彼女。
もう皮膚がぐちゃぐちゃになってしまっているその子をなでながら、その何倍もの大きな声で、ずっと叫び続けてた。
悲鳴のように。



溢れるほど生まれていって、溢れるほど死んでいく。
その字の通り、本当に、溢れるように。

溢れるように。



忘れがちだけど、みんなわが子を心から愛してます。


無条件に愛してくれるお母さんに感謝して。
あなたが生まれ、あなたが産んでるその裏側では本当にたくさんの赤ちゃんが命を全うできていないことを知り、その命の尊さに感謝して。
たくさんの不満を置かれた環境にぶつけながら、それでもまだまだずっとマシだと感謝して。
私達、世界の頂点のような生活をしていることに感謝して。

そうしてほしいな、と思います。


いつも笑顔と涙の中にいる仕事。


自分もたくさん喜び、たくさん泣きますが。
でも、いい仕事です。


ああ、いい仕事だな、と感じます。

2010-09-27

怒りの矛先

そろそろ書こうと思います。
私が日々何をしているか・・・。
そういえば、まともに一度も書いていませんでした。

私が主に通っている県病院という病院に、村で医師なしで診療所を動かす看護師が21日間ずつ研修にきます。(かれこれ始まって2年)
その看護師達の研修のフォローを主にしながら、同時進行で病院自体の産科の改善に努めているというのが簡単な説明。
日本で言うと、看護実習生についてくる先生みたいな役ですが、彼女達はもう臨床に出始めているのでそういう意味では新人教育みたいなもんです。
そして、その後どうなっているかフォローアップのために村を回ったり(おもに看護の”質”の部分)、遠く離れた看護師同士が情報共有できるようなアプローチをしているところです。



今日は新たな研修が始まって2日目でした。

朝の回診のときから、やたらと心配して声をかけてくる家族が分娩室にいました。

「ねえ、大丈夫かみてほしいんだけど。パタリヤから来たの。先生にここに行けって言われたから。ねえ、大丈夫かな?昨日からずっと痛がってるの、こんなふうに」

どっちにしても、研修生にはみんなの観察をさせているので、一緒に状態観察をしました。

気になったことは高血圧であることと、陣痛が弱いこと、その陣痛が結構長引いていること。
つまりどっちかというとハイリスクに分類されます。
注意が必要ということ。
赤ちゃんの心音は正常でした。
逆子だという理由で搬送されてきたその患者、診察したらちゃんと頭位(頭が下)でした。
なのでその旨家族に全て説明し、様子観察していたのです。

しかし、今日は運の悪いことに外来のスタッフが体調不良でお休み。
先生一人で70人近くもの患者さんを3時間でまわせないので、私がお手伝いに行きました。
それでも研修生も放ってはおけないし、患者さんも気になるのでできるだけ半時間~1時間置きぐらいに分娩室には行ってたのです。
今日の分娩、産科病棟担当の看護師は、ここで言うことではないかもしれないけど、看護師としてどころか人間として間違っているだろうと思わざるを得ないような言動ばかりの人。
もちろん、仕事なんて全くしないし、ずっと詰所で座るばかり。
私の話どころか、誰の話も聞きやしない。
おまけに、6日間のIUD(避妊具の一種)の研修がフィールドの看護師を対象に今日から始まり、その管理もしなきゃいけない(だって、それをしているのは今日休んでいる外来の看護師さん)
なので、そういう意味でも大変でした。

行ったり来たり、行ったり来たり。
それはいいです、日本よりずっとマシだから。

途中の廊下で
「センセーイ!!」と呼ぶ声。
気にかけていた産婦の家族の一人。おそらく赤ちゃんのおじいちゃん。
「ハアハア。先生!どうですか、こどもどうですか?!心配で」

私、いいました。
「逆子って言われてたみたいだけど、頭から来てます。これは確実。だんだん降りてきてるけど、血圧も高いしちょっと心配。ただ、いまのところ心臓はしっかり動いてるよ。それから先生じゃないけどね・・・」

おじいちゃん、笑顔で戻りました。


11時半、研修生と一緒に赤ちゃんの心音を確認したので、そのあともう一度血圧をみないとな、と思っていました。
でも外来に呼ばれ、もうひとつの研修の子達を外来に呼んだりしているうちに12時半近くに。
気になって分娩室へ戻りました。

研修生はいません。
最悪な看護師ももちろんいません。
詰所で談笑しています。
でも、その産婦のお腹はへこんでいる。

「あ、生まれたのか」
そう思ってふと後ろを振り返ると、真っ青な赤ちゃん。

”なんで”
”なんでなんでなんでなんで”

12時に生まれたそう。

”なんで死んでいるの?”ではありません。
理由はある程度、想像がつきました。


なんで死んでいるのかではなく、なんで死ぬような状況になったんだ!ってことです。

まだ来たばっかりで不慣れな研修生にしっかり説明していなかったこと(実際、彼女達は呼ばれて帝王切開についていたそうでお産の直後に分娩室に戻ったとのこと)。
看護師はその場にいなかったこと。
看護助手がお産をとったこと。
そして、赤ちゃんの大きさや生まれた後の時間と比べたその皮膚の色からして、おそらく産後の蘇生でなんとかなったかもしれないという悔しさ。
半時間前は心臓はお腹の中で動いていた。
放っておかれている赤ちゃん。
談笑している看護師。
涙を浮かべるおばあちゃん。
私が分娩室にいれば蘇生できたのに、なんで外来にいたんだ私。
おじいちゃんのあの笑顔。
ここでだって助けることができた、死ぬはずじゃなかった赤ちゃん。

怒りで体は震え、涙をこらえられませんでした。

研修生を外来に呼び、事情を聞きました。
「帝王切開を見に行ってたし、看護師もいなかったらしい。すぐに蘇生をしたけど、生まれたときからあんな感じだったから亡くなってしまった。」
彼女達は責められません。
「わかった。でも約束してね。今度から、必ず看護師か先生、いなければ私でもいいから誰か呼んで人を集めてからお産にしようね」
そう言いながら、ボロボロ泣いている私に
「ごめんなさい。」といった彼女達。


「だから何度も言っているのに。だから分娩室に看護師を1人でもいいから置いてって言っているのに。なんで?彼女の仕事はなんなの?あの赤ちゃんは生きてたのに!!!半時間前まで生きてたのに!」
泣きながら言う私を、女医さんがそっと抱いて言いました。

「カナ。知っているように、人がいないのよ。ごめんね。私のせいでもないし、カナのせいでもないけど、でもごめんね。あなただって24時間蘇生につくわけにいかないんだから、受け入れるしかないのよ」って。

人がいなくっても、最大限試してみること、それすら怠る今日の日勤の看護師にこの怒りを向ければ楽になるんでしょうか。
安月給で、興味のない仕事をしているとしても?


私にせめてできること。
女医さんにお願いして、家族にどうして赤ちゃんが死んだのか説明してもらいました。
だって、なんの説明もおくるみもなく言葉の通り放っておかれるなんて、あんまりだったから。


どうして死なないといけなかったの。
生きたかったよね、赤ちゃん。
半時間はやく分娩室に行けなくって、ごめんなさい。
殺してしまったようなもんじゃない。

去りゆくものは去るとしても、生きれるものだけが生きれる世界だとしても。
それでも目の前で助けられないのは、悲しい。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
医療者の方へ

詳細を少し。
PIH、骨盤位の診断で搬送。
陣痛は2日前からとの主訴。
1経産。
朝の時点では、BP150/90、症状なし、FHR140(トラウベのみ)、子宮口全開、St+1、人破され胎便なし、微弱陣痛。
その時点で、降圧剤(これが日本で何かわからずスミマセン)をim、オキシトシン5uを全開drip。
これで一気に分娩の状態が変わったのかと。
そこは医師の指示だから何もできない・・・。
児は3kg前後で、心拍停止状態だったが、IUFDとは考えにくい所見(実際半時間前にFHR確認している)。
急激な血圧降下と陣痛促進、遷延分娩に加え、おそらく間欠期も行われていた努責促しによる死亡かなと私は思っているのですが、どうでしょうね。
そして適切な蘇生は何もされなかった。
医師は、患者が健診をちゃんと受けていなかったこと、PIHが原因でIUFDだったとの説明をしたけれど・・・・


2010-09-23

最近変わりつつあること、そして嬉しかったこと


1人のナースを含む、固定の3人チームでとてもシステマティックに管理されているオペ室。
(もちろん日本とは比べ物になりませんが、現地にしては上出来)
分娩室もそんな風にしたい!って思って、足しげくオペ室に通い、相手を褒めてたくさん教えてもらいました。(知っていることだけど、知ってるけど・・とは決して言わないのがミソであり我慢)
そしたらオペ室チームと出会うたびに、笑顔で
「カナー、なんかできることがあったら言ってね。」
と言ってくれる最近。
そして、その姿を見ていた産科のドクター達が、
「私達がカナにできる助けはなに?」って言ってくれました。
ああ、その言葉だけで十分嬉しいです。


この人がいなければ・・・もっとスムーズに事は運ぶ。
という、産科の師長。というか、おばさん。
でも、別に悪人なわけじゃない。
ただ、ムズカシイ。
でもずっと負けじと距離を縮めていったおかげで、彼女が私をかばってくれたことがありました。
なんだかわからないけど、心から嬉しかったです。
もっと縮めてみよう。
え?もちろん産科をよくするために・・・です。



同僚の一人がお産。
特別に、キレイなオペ室でお産をさせてあげ、産後ひっきりなしに訪れる同僚達。
私はずっと付き添って、経過を書いてました(専門的にはパルトグラムを・・・)
こういう、職員はちょっとVIP対応な感じと、みんながやってくる感じと、その中に自然に入れてもらえている感じが日本で働いていた頃を思い出して懐かしくって、嬉しかったです。
もちろん、平和なお産で元気な赤ちゃんの誕生はその日1日を幸せにしてくれました。



3人同時にお産になることがあったって、30人ぐらいの褥婦と、10人ぐらいの産婦にあてられた日勤ナースは1人。
たまたま入った分娩室で、一方がお産をしているときに一方から7カ月の子が生まれました。
早産です。
人がいないので、勝手に。
そこに出くわした私。

さて。
必死に蘇生し、保温、吸引、ない酸素ボンベを取りに行かせること数回、病院内を家族を連れまわして、そんなこんなで小児科医に薬処方させて、もう大丈夫かなと思うまで軽く2時間程費やしてしまいました。
翌日、鼻管からの母乳のあげ方を指導し、注意点を伝え、ここでは必ず放っておかれるので無理やりドクターやナースに診させに連れていき、そして必ず5日後外来に来るように伝えて退院させたのが今日です。
(こんな未熟児でも勝手に退院にさせられて・・・!それはさておき。)

ずっとそばにいてウンウンとうなずくだけだった旦那さんが、
「こんなによくしてもらって・・・。うぅ・・・。他の人はみんなこんなにしてくれないよ。本当にありがとうございます」
ってまっすぐ目を見て涙ぐまれました。
あたりまえのことで、それどころか、何もないから何もできないのにこんな言葉をもらって。
照れくさくって、
「たいしたことじゃないですよ。かならず来てね、1週間後に!」と伝えました。
ああ、嬉しかった。
当たり前のことなのに。



県病院で6日間コースのIUD(避妊具)の研修が行われています。
最近ガイドラインが変わったパルトグラム(お産の経過を見る用紙)。
ずっと以前にお産の研修を受けているその看護師達はそのことを知らずに今も古いままのやり方でやっています。
だから、この研修の間に、避妊具と全然関係ないけど、伝えませんか?と言ってみた。
だって、私達がフィールドの病院を1件1件回るのはとても大変だから。
「いいアイディアだわ。一緒にやろう!」
と言ってくれた女医さん。
2日後ぐらいに彼女の講義の時間をもらうことになりました。
良かった、ずっとやりたかったんです。


後は仕事と関係ないけれど。
研修中のANMの子が、
”カナと、この時を忘れないために”
と言って、こどもにタロウと名付けてくれたこと!
何十もの名前を提案したのですが、なぜかTAROが人気でした。

もう一人、妊娠7カ月で研修中だった子が、
”カナにとりあげてもらうために11月来るよここに”
と言ってくれたこと。
その言葉は、助産師にとって一番嬉しい言葉です。



嫌なこと、悲しいこと、辛いこと、不満と愚痴の方が多い気がするけれど、
嬉しいこともこんなにある。

だからやめられないんですね、生きることって。
だから素敵なんですね。











TAROと、TAROのおかあさん。

2010-09-20

五感の記憶・・・触覚

暇なわけではないけれど、そういう気分なので毎日更新。
試験前ほど、部屋の掃除的な。


実は冬が大好きな私。
特に日本の冬は大好きです。
ロシアとか、高地レベルの冬はちょっと・・・

今まで出会った人の大半は ”夏が好き” と言っていました。
開放的でわくわくするからだそうです。

ああ、夏も好きですけどね、でも冬が大好きです。



空気の澄み渡り加減。
鼻だけ冷たくなる感じ。
朝夕のすーんとする空気に加え、昼の太陽の鮮やかさ!
暑い夏にいきなりクーラーのところへ入るのはあまり好きじゃないけれど、寒いときにあたたかい場所へ入るあのなんとも言えない安堵感。
秋冬服の方がおしゃれだし、年末の心躍る感じがやめられない。

どうせ帰るなら冬に帰ればよかったか?

と、少し思いました。



今日は連日の大雨のせいか、とても寒く、風が吹いて、半袖では震えるほど。
3月から続く夏に、そろそろ飽きてきています。
寒くなるのはおそらく12月に入ってから。

2カ月強ぐらいしかない冬が待ち遠しくなった、そんなお天気でした。

2010-09-19

違いの難しさ

情報を選択できて、自由に利用できる私達には、それが無い人よりずっといろんなことを知っているのかも。

それでも、”インド人はカレーしか食べないんでしょ?” というヒトもいるからなんともいえないけど。

おなじく、”ターメリックも、コリアンダーも、クミンも使わないなんて、一体日本人は何食べてるの?”っていうヒトが大半なので、なんともいえないけれど。




実体験したって、わからないこともあるもの。



違う、でも受け入れる。

この難しさは、体験したって難しいもの。

どこの国でも難しいもの。



「インド人は嘘をつく。」


日本人だって、嘘はつきます。
方便の時もあるから。


でも、日本人的倫理観に反する範囲を容易に超えた嘘もつく。
小さいことから大きなことまで。
可愛いことから許せないことまで。

どんなにいい人でも、どんなに近しい人でも。

”知らないのに、知っているという”
”知らないふりをして、知っている”
”やったのに、やってないという”
”やるといって、やらない”


そのたびにやるせなくなるけど、
嘘をつかずとも平和にいられるのは、実は日本だからかもしれない。
嘘をついたらダメだという倫理観とその基準値は、自分達の文化なのかも。
あんまり嘘をつかなくてもいいのは、日本が平和だからかな。


大勢の国で、立ち向かう術なのかも。



いつもインドのいいことばかり書いているので、たまには嫌なことも・・・

まわる地球で

夜、チャット(パソコンの画面で、文字と文字のやりとりで会話をする機能。同時進行なのでメールより早い)の画面を開くと、同じく地球の裏側、中米で助産師として働くお友達がオンラインでいました。

1年ぶりにパソコン上で再会です。

お互い相手が文字を打っているのも待てず自分も打ち始めてしまうぐらい、思いや近況、愚痴や喜び、悩みや思い出を2時間にも渡り話しこんでしまいました。

”なにしに来たのかって思う日もある”
”なかなか伝わらない”
”帰ったらどうするか”


去年の夏、同じ不安と希望を抱いて長野でともに過した、そのなかでもひときわつながりの強かった助産師仲間のうちの一人。
何も変わっていないようで、そんな中でもいろんなことをお互い吸収しているみたいで本当に嬉しかった。


自分一人、たった2年。
雄大なる地球の、インドの一部の町で、”ただ住んでチャイを飲んでるだけなんじゃないか?”と思う日も含め、存在すること。
目にみえる結果は少なく、そこに残る言葉や思いを伝えてくれることだけを信じて過す日々。
それでも、毎年何千人もの人がそうやって出ていくだけで、少しずつ世界は変わるんじゃないかって、あの長野で出会った訓練生達のことを懐かしく思いました。



いつも主張したいと思っていることがあります。

行動にできなくてもいい、たまにでもいい、真似しなくてもいい。

でも、

”関心をもつこと”

いろんなことに。

新聞を読むだけでもいい。
批判や賛同、怒りや悲しみ、軽蔑や賞賛、なんでもいい。
自分にできることが、自分の毎日を精一杯生きるだったり、自分の家族を思うことだけでもいいと思う。
その中で、できることが必ずあるはずだから。

だから、何かに関心は持ち続けてほしいと思います。

無関心よりずっといい。



いつのまにか、朝だったホンジュラスは昼になり、夜だったインドは夜中になり。
日本だったら朝まで話をしていただろうと思いながら、”あ、向こうはまだ夜じゃないか”と思ったり。
夢中になった現代風おしゃべりを終え、インドの私は眠りにつく直前です。

私が過した朝を彼女はこれから過すのかって思うと

「地球はこうやって廻るのか」

と、思い。



どんな時代もあがり続ける太陽を、お手伝いしているような私達のしごと。
自分の生きる時代の太陽だけはせめて無事に。

ヒトから生まれるヒトという小さな宇宙に感動するよね、と会話の中で共感できたような気がします。

2010-09-11

帰国して、帰国

まだ夜中ともいう早朝、裸電球の薄暗い駅に降りたった途端、離れていたのが嘘のように思えました。

待合室で休憩したあと、Blue momentの朝の時間を風を切って走るサイキルリキシャ。
頭の上の屋根は開けてもらい、風を感じながら帰宅しました。
火曜日のこと。

各お寺からの心洗われるマントラが静かに流れているなか、道で歯を磨いたり、こどもが用を足していたり、牛が歩いていたり。

あんなにクリーンで、ラグジュアリーで、スムーズで、コンファタブルな国にいたから、
”ちょっと帰るのよそうかな”
って思う気持ちも少しありましたが、つめたい朝の時間を通り抜けながら、心の中の「にやっ」とする感じとともにすぐに自分自身がそこに収まってしまいました。
「いい夢みたな」、ぐらいの。


そう、そんな快適な国はこの世で一つ。母国です。
休息目的でほぼ実家にこもっていたため、お知らせせず今回会えなかったみなさん、ごめんなさい。
来年、ぜひ会ってください。


どこからやってきたのか、増えた可愛い親戚。
同じように小さい時、同じおじいちゃんとおばあちゃんに囲まれていた大事な従姉妹の産んだ娘。
おじいちゃんやおばあちゃんがいなくなっても、こうやってずっと家族は増えていくんだなあと感動。



25kmも自転車こいで会いにきてくれたおじさん。
上の娘のおじいちゃん。
インド人でも25kmも漕いでる人みたことないです。
でも嬉しかった。


きっと、私に言葉でいう何倍も心配ばかりしているだろう両親。
帰省しても心配ばかりかけっぱなしでしたが、いつも幸せです。



「カナ~!おかえり!」って、たくさんの人が迎えてくれるインドへ再上陸。

いえ、無事に ”帰国” しました。

2010-08-25

おしらせ

すみません、Kana さん少し旅に出ていますため、しばらくお休みさせていただいております。

9月半ばより再開いたしますので、覗いてくださっている方、今後ともよろしくお願いいたします。


Kana

2010-07-20

若者の心と、格差

自殺大国と言ってもおかしくないような、今の日本。
世界で9番目だそうです。
あのアメリカでさえ40番台だそうです。


死ぬことよりもずっと苦しいように感じるぐらの苦しみと闘いながら生きるのは、大変なことだと正直思うこともあります。
そう、思わないわけではない、ということ。
人間は誰だって、弱いから。
それでも、生きようと思うことができるのは、それだけで自分はなんと幸福なんだろうと周囲に感謝するのです。


仕事は全くできないのだけれど、病院の外来にいつも笑顔で座っていた看護助手的な存在のヒラというおばさんがいます。
本当に朗らかで、私にもいつも変わらずニコニコ話かけてくれていました。

月曜日、病院に行って聞きました。
ヒラの長女が亡くなったと。
19歳だったそうです。
よく聞くと、毒を飲んで自殺したそう。

”エンジニアの学士の勉強中”というのは、中~上流階級を表す単語の代名詞みたいなもので、これは想像に過ぎませんが、ヒラのような地位のお母さんの家系では、おそらく ”頑張って” その大学に入っていた状態。
「長女はエンジニアの勉強中で、次女には看護の学士をとらせている最中。自分は教育をちゃんと受けられなかったから」と、とても自慢気だったのです。いつも。


その長女が自殺した。



小学校の頃から、進級試験が非常に厳しいとされるインドの学校教育。
彼女が自殺をした原因も、大学での試験・単位に関わることだったようです。



日本人のあなたなら、どう感じますか。

”そんなことで・・・”と。

やはり思うでしょうか。



貧しい家庭、ギリギリの家庭。
インドのカースト制度、格差社会のループから抜け出すには、学歴をつけて、のし上がるしかない。
家族を幸せにできるかどうかは、自分のこの手にかかってる。
学歴もなく、カーストも低ければ、一生貧困からは抜け出せない。
経済発展が著しい今のインドで、若い世代がそこに人生をかけているのです。
つまり、親が家計を詰めに詰めてお金を払ってもらい入った大学で、自分が滞りなく卒業し、問題なく就職するところまでいったら格差をきっと踏み倒せる。
でも逆の場合は、木端微塵になってしまうのです。


詳しい理由はわかりません。
ただ、彼女はその大学での進級につまづいてしまった。


毒を飲むほどの苦しみ。
大好きな家族を置いてまで、逝ってしまいたいと思うその苦しみ。



インドは世界で40番台前半だそうですが、10代の自殺率が極めて高いそうです。
そして特徴的な、10代に限らない理由。
農作物の収穫期、不作を苦にする集団自殺と、進級時期に増える自殺、そして異カースト間では許されない禁断の恋愛を理由にする自殺。

私がインドに来てから、身近な人の例を聞いて、これで4件目です。


外来に貼ってある、雑誌の切り抜きみたいな神様の絵にまでいつもお祈りしていた、ヒラ。
笑顔が絶えなかった、ヒラ。

貧困よりももっと深い悲しみに包まれているのでは、と胸が痛くて張り裂けそうです。



”そんなことで” と思える私達。

”選択” という道がある私達。

”自殺する彼女の気持ちを想像できない”



それだけで、とても幸福なことなのだと思います。

2010-07-18

価値観の問題?

集中ベーシックコースのヨガが今日で終わり、あとは日曜の週一になります。
アドバンス(応用コース)は合宿があったり、なにかと素敵なシステム。

今日はいつもの倍ぐらいの時間で、なぜかよくわからないがゲームがあったり、プレゼント交換がありました。

ま、「なぜかよくわからない」ことなんて日常茶飯事なので、さして気にもとめていなかったのですが、さすがに久しぶりのプレゼント交換とあり、私も楽しみでした。


あの音楽が鳴って、横にプレゼントをまわし、音楽が止まったところでストーーーップ!となるあれですね。
なんら難しいことはないあれですね。
小学生でもやってのける、あの円になってやるやつですね。


それが・・・・。


それがインド人の手にかかると、もう大パニック。


右から回ってきてるのに、左に回してしまったりして、1人3個ぐらい持ってたり。
自分が持ってきたプレゼントは膝においたまま、他人のだけ回してたり。
せーので回さないもんだから、もうぐっちゃぐちゃ。
「はやくそっちだってば!」
「え?なに?これ、自分のを他人にあげるの?まわすの?」
(何聞いてたんですか?てか、プレゼントでしょうが!)

わいのわいのわいのわいの、大大パニック。

音楽はとうに止まっているのに、回し続けたりするので、
係の人が「ストーップ、ストーップ ストーーーーーップ!!!」と体全身でとめていました。
結局、1人のところに5つぐらいかたまったり、何も持っていない人が多数出没。


なんのためにまわしたんですか・・・


私だけ大爆笑です。


そう。
そんな苦労をのりこえて、私にあたったものがコレ。















サイババ様の置物・・・・。
・・・。



隣で、ガラスの可愛い器4個入りがあたったお姉さまが言いました。

「あら~~ いいわね~~いいわね~~サイババ様じゃない!ご利益あるわよ~。小さくてどこにでも置かせていただけるし、なんて素敵なの~このサイババ様!換えてほしいわ~」

(え??!!!換えますよ!奥さん!ガラスの器!!うつわ~!!)

となっていた私は。

「あ・・・あはは、そうですねえ。それなら交換いたしましょうか?(やったー!)」と言ってみたら。

「ダメよ!そんなサイババ様がせっかく来てくださったのにそんなこと言っちゃ。大事にしなさいね。クリシュナちゃん(前回記事参照)」

と言われました。

・・・・・。



誰よりもうらやましがられた私のこのサイババさん。


(私は・・・・ガラスの器とかプラスチックの時計がよかったですよ。)


最後はみんなで食事をして解散しました。
めでたし。

2010-07-15

前回記事 補足:マントラ


今朝歌った歌は、どうしてもみつけられませんでした。

でも同じ、クリシュナという神様のために歌った、同じようなトーンの歌をみつけたので、参考までに。

でもこれは正式なマントラではないかな・・・


マントラ。

こんな感じの祈りの歌が、お寺から早朝聴こえてくるとき、胸がジーーーンとします。


神様ごとにも何十種類もあって、本当にいろいろ。

ちなみにこのクリシュナさん。

かなりやんちゃな幼少期を送り、かなりのイケメン(?)プレイボーイで、女をはべらかしていたそうですが、結構好きです。

なんでかって、別名をたっくさん持ってるこのクリシュナ神、その別名の中のひとつにKanhaというのがあり、私が自己紹介をすると必ずそのKanhaと間違えられ、「いい名前だね~そういえばKanhaは今までなかったな!」みたいな話題が広がるからです。

・・・。


細かーい人生話(神生?)がちゃんとあるヒンドゥーの神様達。

そんなところもおもしろい。

インド哲学 その2

2週間程前から、例年より遅く雨季に入った北インド。

雨が降り出して3日経った頃、外に出ると一面ミドリが輝いていてビックリしました。
たとえがあまりよくないけれど、ちょうどお弁当のバランの色、そのもの・・・。

空気が冷たく、朝晩はファンがなくても大丈夫なぐらいに気持ちのいい季節になりました。

そんな最近、朝6時から町の小さなホールで行われているヨガに毎日3時間行ってます。

5時台の外の空気はとても気持ちよく、小鳥がさえずっている時間です。




ヨガというと、インドですが。

日本ではエクササイズだったり、足を頭にあげちゃったり、といったそういうことにフォーカスされていると思いますが、本来ヨガはその精神を説くことがやはり重要なようです。


30人ぐらいの参加者は、いつも1~2時間ぐらい、先生からいろんな精神論(主にヒンドゥー教に基づいた考え)を聞き、そのあと体内の悪を取り払い、清らかなものを取り込むために呼吸を1時間程するのです。
難しいポーズより、呼吸。

そして、この複雑で混沌とした世界において、自分の軸がぶれることのないように、あるがままを受け入れ、生を全うする。
そのためのお話をたくさんしてくれるのです。

あやしい新興宗教等ではなく、古くからインドの人が考えてきたことであることが興味深く、そして生活してみていかにインド人の精神力が強いかを思い知らされていることから、こういう風に人生を生きているのかと思うと関心するのです。
仏教にも通じるところがあるのは、さすが仏陀と仏教を生んだ国。




●मन (マン)・・・こころ
目は見ることができ、耳は聞くことができるけど、心は見ることも聞くこともできる。
心で見て聞こう。


●コインの裏表
コインのこちら側が、平和・よろこび。
コインのこちら側が、不幸。
平和をここから取ってください、と先生に言われ、みな混乱した。
どちらも存在して、初めてコインであるため、平和だけとれないんですね。
人生に悲しみしかなければ、喜びにはきづかない。逆もまた然り、と。


●कोशिश (コーシシュ)・・・トライ
たとえば、「座るよう試してみてください」と言われたとき、別に座りなさいと言われているわけではない。最終的に座るのか、座らないのかは、自分次第。
でも、自分の中の”心”はそのकोशिश という言葉は知らない。
するかしないかではなく、したいかしたくないか、嫌か嫌でないか、考えたくないのに考えてしまう。
それが”心”
心を解き放ったとき、探そうとしたものがみつかるとのこと。
鍵がないない、と探しているときはみつからない。
探そうと努力するその心を解き放ったとき、鍵がみつかる・・・とのこと。
”おこっていること、するべきこと” それが、それ。
つまり運命。


●अभी (アビヒ)・・・まさに今この瞬間、ライトナウ
心は、過去にも未来にも思いをはせることができるけど、人生は”たった今”このときだけ。
1寸先は闇、と日本語でもいいますが、まさにそれ。
大家さんに話したら、「だから、会いたい人がいて、会いたいと思ったときは、すぐに会いに言ったほうがいいよ。したいと思うことがあるなら、今すぐにでも行動にしたほうがいいよ。未来はわからないからね。今を生きようね」って言ってました。
インド人、みな哲学者。
関西人がみな芸人なのと一緒・・・。

●पानी जैसे रहना है ・・・水のように生きよ
上から下に落ちても、形が壊れない。
障害があっても形をかえて流れることができ、その本質は変わらない。


まだまだたーーくさんあるのですが、印象に残っているものだけ挙げました。

最後に屍のポーズをし終わったら、みんなでヒンドゥーのマントラ(お経)を歌って終了。
このマントラ、南無阿弥陀仏的な暗いトーンではなく、本当に透き通った聖なる明るい歌。
神様によっても、何百と種類があるそうですが、いつもマントラを聞くと心に響いて泣きそうになります。


「あなたの人生に必要なものは?」
「幸せなのはいつ?」
「幸せになるには何が必要?」

そんな問いかけを先生にされるだけで、人間は意外と欲を捨てれば楽に幸せに生きれるんじゃないのかな?
って思いました。



実は欲だらけのインドで・・・。

2010-06-26

1年

結婚式に忙しかった昨日、25日。
ちょうど1年前の昨日、私は仕事をやめて、東京を後にし、このブログを書き始めました。

それより10カ月前に受験をし、それより5年前には世界に出ることを考えてあの病院を選び、それより何年も前からこの世界に来たいと思っていました。

そして、辞めてから1年。
その後、目まぐるしい程に忙しく、出会いと別れを5年分ぐらい繰り返し、今日という日をインドの片隅で過しています。

1年経って、やっと我に返ったような気持ちです。

初心は忘れてしまうから初心と言われるのかもしれませんが、できることからやってみようと思いなおしました。


昔の隊員がインドの人に言われたらしい言葉で心に残っているものがあります。


”日本人が、この広くて何億人もいるインドに2年ぐらい住んでボランティアしたところで、インドに及ぼす影響は微々たるものだろう。むしろその2年、インドで生活してインド人から学んだことを、自分の人生に役立ててほしい。日本人にインドのことをもっと理解してもらえる橋渡しをしてほしい。そして、いつか時間がかかってもいいから、ゆっくりどこかでそれをインドに還元してくれればいい”


煮詰まって焦った時、いつも、”そうだな” と思って心が軽くなります。

日本にいたころは、”国際協力” っていう、どこかしら壮大なテーマに酔いしれていることが多かったように思います。
現実は、どんな仕事だって地道でそして地味な作業が多いもの。
来てみて思いました。
”なんとか助けなきゃ” とか ”アフリカのこどもは・・・うんぬん” っていうステレオタイプの言葉がどれだけ陳腐なものだったかということ。
でも、現実の悲しみに悲観的になっていても、そんな理想論意味ないとけなしていても始まらないと思っています。

意味がないことは一つもない というのは自分の人生論の一つですが、無理やり答えや結果や意味を見出すことなくできればいい思っています。

先のインド人が言ったように。
自分なりの形で、社会貢献していければと思います。

・・・・・・・・・・・・・・

結婚式参加ではなく、身内の結婚式実施を見学した今回。
とっても充実した3日間だったので、結婚式レポまた書きます。



2010-06-23

結婚

インドは、今でも80~90%近くが、親同士が決めるお見合い結婚(Arranged Marrige)が主流。
つい何十年か前では、ほぼいいなづけ状態で結婚式までお互い会うこともなかったそうです。
つまり、残りの10~20%(といっても日本の人口以上)が恋愛結婚。

(*何年か前に旅行で行った、原理イスラム主義のイエメンでは、結婚式で女たちが上から建物の下を歩く男たちを見降ろし、花嫁もそこで初めて花婿を見ていました・・・)


今は、親が決めた相手と2・3回(!)会ってみるか、遠いときは結婚式まで電話で話して、息が合えば結婚になります。
最近はネットや情報網が発達したので、近くではなく遠くの人とも結婚しています。
日曜日になると、新聞3面近くが花嫁・花婿のプロフィール紹介面。
宗教別、カースト別などに細かく分けられていて、もちろん親が子どもの情報を投稿しています。

カースト○○ ヒンドゥー
”何年生まれ 何年にMBA(経済学修士)取得、○○(有名企業)勤務、色白、高身長、ハンサム。カースト不問。携帯番号・・・・”

などなど。


映画やテレビでは自由に繰り広げられる恋愛模様。
しかし、実際には異カースト間、異宗教間、などで結婚することはタブーであり、ましてや女が男より高カーストだと大変です。
人づてに聞いたこないだのニュース。
そんな恥を一家に残されては困る、と、親が実の娘を殺してしまいました。


つまり禁断の恋だらけで、ついうっかり好きになりそうになってもカーストはまずチェックするらしいです。
気持ちが高まる前に抑える努力をするんですね。
しかも誰かと付き合って別れた過去がわかると、女の子の場合キズモノ扱いになってしまい、いい縁談がまわってきません。
代々医者一家の大家さんは、大都会の大企業で働く娘に、”彼氏はつくらないよう”釘をさしてある、と言ってました。(・・・同情・・・)
恋が実らず自殺をした話(よく聞きます)、残念ですが身近で聞いたこともあります。
ま、特に田舎だからというのも大きいでしょうが。


なので、都会の子達はたくさん恋愛もしていますが、
「アレンジの方が親も家族も幸せになれるから、恋愛結婚はちょっと・・・」
「え?恋愛?めっそうもございません・・・」
という子が結構多い。

田舎であるここで、最近お友達が結婚したが高校の同級生で、恋愛結婚(Love Marrige)でした。
「ラブマリッジだってこと、言いふらさないでね・・・」と、ヒソヒソ声で言っていました。


さて。
あさって、大家さんの親戚が結婚式を挙げます。
大家さんの奥さん側の親戚で、両親ともに早く亡くした彼女は、うちの産婦人科に最近異動したドクターでもあり、歳も近いです。(つまり少し遅めの結婚。女は25あたりが売りどき)
初めてうちであったのは1月頃でした。

「まあ結婚はそのうち・・・。まだね」と言っていた彼女。

親代わりの大家さんが、アレンジしていたみたいですが。
4月になって。

「スワティの結婚が決まったわ。先週会わせたら、お互い気に入ったみたいだから。6月に式よ。うちが実家みたいなもんだから、カナもよろしく」



「・・・。」

自由恋愛大国ニッポンも、昔はこうだったのでしょうか。
自由恋愛全盛期に生まれて育った私には、今でもまだ少ししか理解できません。


こういうこともたまにあります。
「○月あたり、結婚式するから来てね!」
「え、良かったね~誰とすることになったの~?」
「相手はまだ決まってないの。」
「・・・・・。」



でも、いえることは、とても幸せそうなこと・・・


「どうしても嫌って人だったらどうするの?」
「好きになれるの?旦那さんとして」
と、みんなに聞くと。

「親が決めた人に悪い人なんていない。どうしてもダメだったら、また探してもらうだけ。」
「恋は、結婚してからするの。」

古い人はこう言ってました。
「どうしても嫌だって思ったって、そんなの自分が受け入れて結婚するだけ。親が決めて、自分は嫁に入るだけ。それが正しいことだって思ってたの。今でこそ少し緩くなって、アレンジに恋愛がくっついたみたいになったけどね」


「・・・?????」

たしかにちょっとくっついたけど、全然、それ恋愛って言わないのでは・・・?
あ、ひとめぼれ?

いや~~・・・
言葉なし。

お国が違うって、こんなに違ってみえるもんなんですね。


ある意味、親も自分も望む条件は両家ともすべて初めからそろっており、今まで恋愛なんていけないものとして育ち、初めっから結婚を前提に紹介されて、初めてそういう対象でみる異性で、お互い特別な存在だと意識することで、一気にもりあがるものなんですかね。


やれ、付き合っただの別れただの
やれ、親の反対だのかけおちだの
やれ、できちゃっただの離婚だの


そういうことを考えると、とても合理的かつ円滑な運びになっているのかも。。。

幸せなら、なんだっていっか。


招待状たち。


2010-06-21

リナの歌


前回記事で書いた、歌の好きなリナ。

歌うから撮って撮って!と言われ、動画を撮ってみました。

このあいだの歌とは違います。

見えにくいけど、満面の笑みで歌ってます・・・。




音楽のもつ力。
それは、言葉や文化を超えて、気持ちが伝わること。

こうやって聴くと、異国の情緒が漂ってますね。


リナ、
「日本行ってみたいな~。1泊2日でいいからさー」
と言っていました。


「・・・・・。」

1泊2日といわずに、大金持ちになったらみんな招待してあげたい気持ちです。

お金がないから気持ちだけ・・・。










2010-06-14

行かないで

県病院でおこなわれている研修、今回の3週間は若い4人組。
21・2歳の女の子達で、新卒あがり。

歳はとってても、顔がうすいので若くみえるのか、言葉がお子様レベルだから若くみえるのか、この年代の研修生が来ると、いつも一緒に仲良くキャッキャッしてくれる。

飲みこみが早く、教えたことはすぐできるし、善悪の判断もまとも。
どんなに辛いことがあったり、理不尽なことがあっても彼女達に話すと楽になる。
何回も繰り返し出会ってきたけど、今回のクールもなかなかステキな女の子達だ。


歌うのが大好き!と言って、いろんなヒンディー語の歌を歌ってくれたリナ。
今日おひるごはんの時に、

「あ、これね、カナディディ(ディディとはお姉ちゃんの意味)のために。」
と言って歌ってくれた。


परदेशी परदेशी जाना नहीं /パルデシ パルデシ ジャナ ナヒーン
(異国の人よ、行かないで)

मुझे छोड़के मुझे छोड़्के /ムジェ チョールケ ムジェ チョールケ
(私を置いて、私を置いて・・・)

परदेशी मेरे यारा वादा निर्बहना /パルデシ メレ ヤラ ワダ ニルバハーナー
(異国の友達、約束してね)

मुझे याद रखना कहीं भुल ना जाना /ムジェ ヤード ラクナー カヒン ブフル ナ ジャナー
(私を憶えていて 片時も忘れないで)

明るい曲調だけど、ジーンとして。
映画では、異国間ではなく異カースト間の恋愛を歌っているそうですが。

泣きそうなのをこらえて、言いました。
「まだ1年以上住むよー」と。

「え、そのあとは帰るの?なんで?」
と、ビックリした純粋な目で見られて、これまたジーンときました。

出会いっていいですね。
ありがとう。

2010-06-11

だいすき!

インドの果物と言えば、マンゴー。
国の果物らしいです。
ほら、国花といえば ”菊” で、
国鳥といえば ”キジ” みたいな。

インドの国花は、蓮。
国鳥は、くじゃく。
動物は、トラ。
そして果物がマンゴーです。


日によって変わるけど、ちょっと高めだったかな。
今日は1kg、30ルピーでした。









1kgって、これが4個ぐらい。
つまり1個あたり、15円ぐらい??

ビバ・マンゴー!!!


関係ないけど、ヒンディー語には女性名詞・男性名詞があって、なんの秩序もなくモノに性別がつく。
たとえばマンゴーも蓮も男だけど、チャイは女とか。
それによって動詞が変化するからまあややこしいんですけど。

感動するのは、なぜか ”母なるインド” という名詞があり、女の性を持っていること。
母がとっても大事にされているインド。
好きなんだろうな。自分の国が。


私も、神秘的な蓮も、甘い甘いマンゴーも、インドのこともだいすきです。

2010-06-10

それでもインドの赤ちゃん

切迫早産といって、簡単に言うと、10か月(臨月)まで育たないうちに陣痛が来ちゃって、赤ちゃんが生まれそうになることです。
体質的なモノもあるし、器質的なモノもあるし、環境によるモノもあるしいろいろ。
日本でも多くって、子宮の収縮をとめるお薬を使って安静にしてもらったり、子宮の出口(入口というべきか・・・?)を縛って満期まで出てこないようにしてみたり。
そうやって、出来る限りお腹の中で育ってもらいます。
胎内の環境を外で作るのは大変で、そして胎内で育つように成熟させるのも大変で、満期まで育ってくれるに越したことはないからです。

人間の体って、つくづく神秘です。


妊娠6カ月のお母さんが、ウーンウーンと言ってやってきました。
「ウーンウーン」と言う言葉が出る時点で、もう結構な痛みが来ていたと思うのでかなり危険です。
でも、子宮の収縮をとめるお薬はありません。
そりゃインドですから、あるところにはあるし、この町にだって入ってこれるはず(もしかしたらあるのかも)
でもとっても高いお薬なうえ、管理だって難しい。
入院して様子を見れる腕のある看護師もドクターもいない。
安静にしてくださいって言ったって、村の女が働かないとみんな食べていけない。
人なんて雇う余裕がないのに、誰がかがんで薪でゴハンを作るのか。
栄養あるもの食べてくださいって言ったって、お金がないと買えないし、肉なんて手が届かない。

生まれようとするときに、産む選択肢しかない。
そのうえ生まれたって、6カ月の子を見れるような設備は何一つない。

家族やお母さん本人はどう思っていたか聞けなかったけど、もちろん私には生まれてすぐ亡くなるしか道がないと思っていたので一応覚悟で見てました。
掘立小屋みたいなきったない分娩室で、他の産婦も他の産婦の家族もみんな凝視。


550gの女の子。
産声を2・3回あげ、ぷるぷる震えて出てきました。
優しく拭き、家族に「小児科に行きましょう」と声をかけたが、「もう頼むからそのまま死なせてちょうだい」って。
「・・・・。でもとりあえず一緒に行こう」と言って、半ば強制的に小児科へ向かうが、いつも通りすっからかんのベッドに、詰所で居眠りしているナース。
「今日、先生休みだし、電気もないし何もできないよ。」とのお言葉だけいただいて、私達は何もできずに引き返しました。
先生だって人生があるし休まないとやってられないだろう。
電気だって計画停電しないと、足りないんだから仕方ない。


分娩室へ戻る最中に、腕の中で息をひきとったので、家族の一人はホッとしたような表情をみせたが、もう一人は目が真っ赤になっていた。

助からないし、助けても後遺症が残るし、そんな治療費払えない。
そう思っているんだろうって私が考えていると、

「神様が連れていってくれる方がよっぽどいいんだよ。女の子だったしね。
あー、大変なお産だった。」
と、家族の一人。


同じインドの大商業都市ムンバイ。
きらびやかな高層ビルが立ち並んでいる都市では、新生児治療室に何床もベッドがあり、この間500gの子ももちろんケアされていたそうです。
日本なら助かったかも、とか、ムンバイなら、とか思わないわけではないですが、考えたって仕方ないこと。
でもその子もインドで生まれて、この子もインドで生まれたのにな、と。
これが同じ国だって思うとなんともやりきれないですね。

当の母は、天井をずーーっとみつめたまま、赤ちゃんのことは一切聞いてきませんでした。

2010-06-09

ヒトの欲

昔臨床に出たばかりの頃、一般病棟に居たことがある。

つまり、産科ではなく普通に疾患を持つ人のまさに「病棟」に。

叫び続ける人、顔以外は動かせない人、夜中中ナースコールを押し続ける人、意識はない人。

8時間トイレに行く暇も座る暇もないぐらいヘトヘトになって働いて、そのうち自分があることを忘れかけていることに気付いた。

”目の前の人が、生きている人間だということ”

当たり前のことを忘れさせるぐらい、人間って環境に飲み込まれるものなんだって改めて気付いた。

その自分が悲しくて、情けなくて、何のためにこの仕事をしてるのかって考えた。


「君にわかるのか?毎日天井ばかり見ている気持ちが」


新米ナースだった私には、返す言葉がなかった。

”病は気から”とか言うが、病が故に気を失ってしまうのだ。

もう一度外が見たい、もう一度料理がしたい、もう一度歩いてみたい。

そうやって、笑わなくなった人、意識がなくなった人。

そう感じてるんだろうなと本当の意味で感じて看護することができたのは、自分に余裕ができてからだった。

だけど、感じただけで、理解はできなかったものだ。
きっと、私が元気だったからだと思うけど。



いつも行く八百屋さんの近くに、何歳かわからない、おばあさんのようなヒトが、道路の隅で寝ている。
一体生きているのか死んでいるのかわからないような寝ぞべり方で。
でも毎日場所が変わっているのでおそらく生きているんだろう、ってしばらくしたらわかった。

先日、野菜を物色していたら、そのおばあさんが寄ってきた。
片手を前に出しながら。
とっさの私は「・・・ぅう。」って思って反射的に身構えた。
でも八百屋の兄ちゃんが、「ほら!あっちいけ!」と言って、5ルピーを投げた。

八百屋の兄ちゃんだって、朝の8時から夜の8時過ぎまで炎天下でずっと野菜を売ってるけど、決して贅沢な暮らしではないはず。

私だって、大金持ちじゃないけれど、ふと思った。
「このお金を抱えて、私はどうするのか」って。
もちろん、これからの自分のこと、将来の家族のこと、どんなときだってお金はあるにこしたことはないんだけど。
だからカツカツで生きないに越したことはないのかもしれないけど。
でも、じゃあどうして八百屋の兄ちゃんはお金をあげられるんだろうって。

”え?なんでこんなおばあさんにあげるの?” って意味じゃなくって。


私には、欲がありすぎるのかな。
それともケチなのか。
それともそれが正義だと思って奢ってるのか。
贅沢から抜け出せないのか。
思いやりが足りないか。
結局は人間は自分が一番大事なのか。


インドに来た冒頭部分でも同じようなことを書いてるけど、どうやらまだまだわからないようです。

2010-06-06

帰ってきました

「全然更新なかったからどうしたかと思った!」
なんて、うっれしいことを言ってくださる方がいらっしゃったので、ちゃんと更新しようと思います。
極少数であろう読者の方々に感謝して・・・。
元気に生きてます!

総会っていう、まあ大きな会議が首都デリーであったので、そのため家を空けていました。
事前の準備やらなにやらもう多忙な日々に加え、あいにく向こうでのネット環境が悪く、更新もできず。


東京に住んでた4年と少し。
帰省するたびに、東京に住んで働いてたことがまるで嘘か夢のように思えたことを思いだします。
そして帰省後、東京に帰ってくると、それもまた自分の家に帰ってきたようにホっとしたことも思いだします。
境目にいたのは、いつも新幹線が出て10分ぐらいだけだったな~。


デリーに行って、もうダモーに住んでたことも嘘みたいに思えたけど、やっぱりダモーに帰ってくるとここが家だと思ってしまう。
デリーで日本語話しすぎて、もうこっちでヒンディー語忘れてるかも、って思ったけどやっぱり普通に話せた。良かった。


朝5時に家に帰ってきて、そのまま汚れた家の掃除をしていたら、大家さんがチャイとビスケットを持ってきてくれた。
朝の涼しさと小鳥の声、誰かが思ってくれる優しさに触れて、”帰ってきた”って思えました。

なんにもないところだけど、「どこ行ってたの!?」 って言ってくれる人がいっぱいいる、私にとっては温かい場所です。

2010-05-18

油断も隙もない!

注:食事中には読まない方がいいと思います。


相変わらず、ネズミさんがどっからやってきてるのか、ウ○チを毎朝定位置になさっている。
暑くて水ばっか飲むものだから、夜中にトイレに行こうとパチっと電気をつけると、Gの活動タイム。
夜中に無心で殺す私、「強くなったのか、慣れたのか、はあ・・・」と言って、また眠る。
気付いたら、身長わずか3cmぐらいのチビやもりを、少なくとも3匹飼っていることになった。
いずれすぐに大人になることを考えると、気分は盛り下がる・・・。

古くて隙間だらけだし、っていうかなんてったって大自然だし、暑いし、ある程度もう共存は仕方ないし、特に害もなければ取り立てて騒ぎもしない。
これでも必死に掃除してるんですヨ!効果特になしです。

だから、たいていのことにはもうビックリしたり、ギャっ とか言わなくなってきた。
ある程度、いるかいないか予測もつくし、いるかなーって思ったら、事前にバンバンって足音立てると逃げてくれるし。

しかーし。
大事な大事な水フィルターの、濾過されたお部屋をのぞいたときに、アリがたくさん浮いていたとき。
この悲しみは、誰と共有すればいいんでしょう。
新しく買ってきて、ちなみにどうかな~♪って、試しに開けて本当に良かった。
何杯かは、きっとアリさんも飲んだけど。
ま、胃にアリの巣作ったりはしないだろうから、よしとしよう。
でも、それから見るたんびに入っている。
もうーー!どっからはいるのさ。
1mmにも満たない、茶色の点のようなアリ。
キッチンテーブルは黒っぽい石だから、見えないし。
もはや彼らの入れないところはないんだな、きっと。
フィルターに水を貯めっぱなしにはせず、濾過したらすぐにせっせとペットボトルへ詰め替えることにした。

「ったく。チッ」と思って、今夜も翌日の水作りをしながら。
ふと、その横の米びつ代わりの透明なプラスチック製瓶を見る。
なんか、く・ろ・い
く・ろ・いのが、ちっさいのが・・・・動いてますよね。
フタはネジ式の完全密閉なその空間。
外から入りこむのは不可能。
「・・・・」
もういやだーー!

私がバカだったんです。
だって、米袋に入った米しか買ったことなかったから、日本では!
米=キレイ、に決まってるって思ってた。
んなわけなかった。
そりゃそうだ。
秤売りでのあの店が、どうお世辞を言ったってキレイなわけないし、むしろ激汚いわけで。
人の家に行くと、やったらみんな米とか麦とかお皿に乗っけて、話しながら触ってるなーって思ってたのに気付けなかった。
みんな、余計な物を取り除いてたんですね。
おかげで、炊きあがった虫とか、炊きあがったその幼虫とか食べてたワタシ。。。
ガックリ。
で、意固地になって虫探しをするが、その度に大事な米がサラサラーとかこぼれてしまって、イライラMAXに。
「こんな夜中にやっても仕方ない、どうせ、食べてきたんだし!
と思い、明日仕事から帰ってきたら、真っ先に米一粒一粒調べてやる!と思って、キッチンの電気を消しました。

ったく、油断も隙もないよ、田舎ってやつは。
油断と隙だらけの生活、懐かしいし、ありがたい。

2010-05-16

おそらく永遠に議論され続けるテーマ


先日、日本人スタッフから読むといいと言われて一冊の本を読んだ。
厳密には、上下で2冊。












インドでは非常に有名なこのプーラン・デヴィという彼女は、下層カーストに生まれ、筆舌に尽くしがたい暴行や差別を受けて、ダコイットと言われる盗賊になり、最終的には国会議員にまでなった女性だ。
一見、差別を受けている人が立ちあがる、ある種聞いたことのあるドキュメンタリーの様に思うかも知れないが、そこには想像を絶するカースト制度の裏側と、インド農村部における女性の実態が描かれていた。

おそらく何百年もたいして大きくは変わってないんじゃないか、と思われるインド。
ITが進んだとか、そういう話ではない。
昔の面影がそろそろ完全に消えようとしている日本のような国ではなく、ずっと根強い慣習や伝統や文化といったものがそこにあるように感じるインド。
そして、私の住む町のさらに郊外は、本に描かれているような生活風景と今もなんら変わりはない。
女性達は、毎朝頭に大きな瓶を2つものせて井戸水を汲んで歩いているし、川で洗濯して、牛糞を手でまるめて乾かしている。
一つも変わってないと思う。

だから、とてもいい面もあり、だから、とても悲しい側面もある。


この女性は、ちょうど私の母と同じ世代に生まれている。

つまり、当の昔の話ではない。
そして、やはりたいして変わってないインドのことだから、きっと今も無数に第二のプーランがいるはずだと思っている。


カーストが、悪いとか良いとか、そういうことはどうしてか、私にはどうも意見できない。
おそらく、インドに来たことがなくって、インドのことを全く知らなくって、よその国で生活していた時に、カースト制度の話を聞いたら、”なんてひどい制度だ!”と憤慨していたのかもしれないけれど。
そんな風には、簡単に言えるような問題じゃない、って、それだけはわかるような気がする。

「人の値打ち」    江口いと

何時かもんぺをはいて
バスに乗ったら
隣座席の人は私を
おばはんと呼んだ

戦時中よくはいたこの活動的なものを
どうやらこの人は年寄りの
着物とおもっているらしい

よそ行きの着物に羽織を着て
汽車に乗ったら
人は私を奥さんと呼んだ
どうやら人の値打ちは
着物で決まるらしい

講演がある
何々大学の先生だと言えば
内容が悪くても
人々は耳をすませて聴き
良かったと言う
どうやら人の値打ちは
肩書きで決まるらしい

名も無い人の講演には
人々はそわそわして帰りを急ぐ
どうやら人の値打ちは
学歴で決まるらしい

立派な家の娘さんが
部落にお嫁に来る
でも生まれた子供はやっぱり
部落の子だと言われる
どうやら人の値打ちは
生まれた所によって決まるらしい

人々はいつの日
このあやまちに気付くであろうか


インドは、着るものや、話し方や、学歴や、肩書きや、しいてはもちろん名字や職業や場所で瞬時に扱いが決まってしまう。
それは差別ではなく、男女が違うように、まさに「区別」のように浸透している。

それって嫌だよね、とか。
それって最低、とか。
間違ってる、とか。
そういうことを発言するのは、簡単なことだ。

私だって、そう思わないわけではないけど、でもちょっと待って、とも思う。


日本にも、いろんな差別も区別もある。
見せないように取り繕っているだけで。
人間がみんなで住む限り、社会がある限り、そういう問題ってずっとあるんじゃないかな。
ましてや、宗教がそれに関与していれば、なおさらのこと。
制度や改革では、人の根本的な思想というのは変えられず、何人か寄れば必然的に形成されていく社会の構図は、ある程度仕方ないとも思う。

大事なのは、わからなくってもいいから、考えたり関心を持ったりすることと、
大切な人は、ちゃんと大切にするってことかな。


未熟な私は、その程度の答えしか出せなかった。
残念だけど。